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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

坂上田村麻呂の戦いーオンライン日本史講座「戦争の日本史」2

追記:関根達人先生のご指摘に従い、38度線と40度線に訂正いたします。

 

6月6日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「坂上田村麻呂アテルイ」の予告です。

ticket.asanojinnya.com

774年、エミシによる上京朝貢の中止と、海道エミシによる桃生城攻撃が起こります。38年戦争の勃発です。

 

背景には偉大なる指導者だった称徳天皇の死去があるでしょう。太上天皇天皇の地位を兼ね備え、聖武天皇光明皇后の血を引く完全無欠なる正統の君主、しかもあれだけの権力を誇った藤原仲麻呂を完膚なきまでに叩きのめしたカリスマ性、称徳天皇はおそらく不世出の君主だったと言えるでしょう。

 

ただ惜しむらくは自らの後継者問題で道鏡を推すという致命的ミスを犯します。彼女からすれば天武の血を引く数少ない生き残りの文室浄三はそもそも彼女より年長ということでアウトでしょう。天智天皇の孫で、皇族であり続けた白壁王も彼女より10近くも年上なのでアウトでしょう。それを言い出せば道鏡も彼女より年上です。八方塞がり、という言葉しか思い浮かびません。

 

冷静に考えれば称徳の異母妹の井上内親王が嫁いでる白壁王一択です。白壁王と井上内親王の間に生まれた他戸親王皇位を継承すれば一番いいわけです。

 

史上最高齢の62歳で大納言から急遽即位した白壁王こと光仁天皇には早晩後継者問題が浮上してきます。光仁天皇の後継者は聖武天皇の娘である井上内親王の皇子の他戸親王で決定していました。というよりも井上内親王の女系を通じて天武系統を残すことに意味があった、はずです。

 

しかし藤原式家藤原百川らが暗躍します。井上内親王には光仁天皇の呪詛の疑いがかけられ、井上内親王は廃后、他戸親王廃太子となります。さらに光仁天皇の同母姉の難波内親王の死去も彼らの呪詛とされ、難波内親王死去後数日で彼らは大和国の宇智に幽閉され、同じ日に死去します。

 

他戸親王の代わりに立太子したのが渡来系氏族の高野新笠を母に持つ山部親王でした。

 

やがて光仁天皇は山部親王に譲位します。桓武天皇です。

 

桓武天皇にとって一番の課題は天武系の都である平城京を去ることでした。平城京は天武系の聖武天皇のために作られたような都でした。天智系の桓武にとっては克服するべき都であったわけです。

 

784年、天武は百済系渡来人の地盤である山背国に遷都します。水運にも便利な淀川沿いで、桂川宇治川・木津川の合流地点の近くにある乙訓郡長岡の地に長岡京を作ります。

 

しかしこの長岡京はうまくいきません。789年、征東大将軍紀古佐美がエミシの有力者のアテルイに敗北します。

 

長岡京では造営責任者であった藤原種継が暗殺され、遷都反対派の存在が浮き彫りになります。すでに死去していた大伴家持らも処分され、人々は疑心暗鬼に苛まれます。最終的に皇太弟の早良親王が疑惑の中心に浮上し、淡路国に配流される途中で餓死します。これは抗議のハンガーストライキの末の餓死という見方と、桓武が意図的に食料を与えずに殺したという見方があります。

 

その後洪水や桓武の血縁者が死去する事件が相次ぎ、早良親王の祟りがささやかれるようになりました。

 

そのような中、桓武長岡京を諦め、さらに渡来系氏族の地に近い葛野郡に遷都を決定します。大規模な土木工事が再び始められ、同時に征夷事業も本腰を入れることになります。なにせ失敗は許されません。

 

794年には大伴弟麻呂征夷大将軍とする10万人の征夷軍が出発し、征夷副将軍の坂上田村麻呂が大きな戦果を挙げました。とりあえず桓武のメンツは保たれたのでした。この征夷事業の成功を祝い、新たな都は平安京命名されました。また山背国は山城国と改称され、国土の中心が大和国から山城国に移ったことが明示されました。

 

しかしまだアテルイはまだ抵抗しています。桓武にとってはアテルイを打倒しなければ真の「平安」は訪れないのです。

 

第三次征夷軍が797年に組織され始め、802年に出発します。4万人の征夷軍が平安京を出発します。坂上田村麻呂征夷大将軍とするこの征夷軍は胆沢・志波のエミシを完全に制圧し、大きな戦果を挙げました。胆沢城を築城するために四千人の浮浪人を徴発して胆沢城に移配するとともに、多くのエミシを俘囚として移配しています。

 

胆沢城の築城中、ついにアテルイとモレが降伏してきました。度々に及ぶ圧倒的な軍事力の征夷軍の前にエミシの地は荒廃し、多くの死傷者を出した上、俘囚として住み慣れた土地を無理やり追い出され、遠い場所に移配された人々も多く、人的資源も枯渇していたのでしょう。土地の生産力も人的ネットワークも破壊された中、彼らに残されたのは田村麻呂の慈悲にすがることだけだったでしょう。

 

田村麻呂はアテルイらの降伏を受け入れ、都に凱旋します。これは桓武にとって格好のアピールポイントでもありました。

 

田村麻呂はアテルイの助命と帰郷を願い出ます。アテルイの名声はエミシの統治に必要だ、というのです。しかし桓武朝はアテルイの処刑を決定し、アテルイとモレは河内国で処刑されました。桓武の軍を苦しめたエミシの代表者は処刑されなければ桓武の権威と「平安京」の威厳は保たれなかったのです。その意味では平安京はその名前と裏腹に血塗られた皮肉な名前だったと言えるでしょう。

 

さらに日本の国境の北上を目指して桓武による第4次征夷軍が組織されます。しかしその動きは遅々として進まず、翌年の805年の12月に桓武天皇藤原緒嗣と菅野真道に命じて徳政相論を行わせます。緒嗣が征夷事業と平安京造営事業の中止を主張し、真道がそれに反対しますが、最終的に征夷事業と平安京造営事業の中止が決まります。

 

これについては、桓武自身の意思が強く働いているのが自然と考えられています。民衆の疲弊と国土の荒廃、国家財政の破綻の危機は桓武自身も自覚していたのでしょう。桓武は若い緒嗣に中止を述べさせ、その意見を受け入れることで名君を演じた、とされています。その三ヶ月後、桓武は70歳の生涯を閉じました。

 

その後は平城天皇による桓武時代の清算が強力に推し進められ、平城から嵯峨天皇への譲位後の薬子の変の翌年、文室綿麻呂が811年にエミシ征討の完了を宣言し、征夷事業と38年戦争は集結します。この時の国境線は40度線にほぼ沿う形で、やや太平洋側で南に湾曲して引かれます。そしてそこより以北は律令制の外の地としてエミシの有力者の自治に委ねるという形がとられます。その辺については次回の前九年の役後三年の役で見ていきたいと思います。

 

なお参考文献はまずこれです。

 


【送料無料】 蝦夷と東北戦争 戦争の日本史 / 鈴木拓也 【全集・双書】

 

他にこれもいいかと思います。

 


古代蝦夷 (歴史文化セレクション)