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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々−細川持之、嘉吉の乱に翻弄された悲運の管領

久しぶりの「後花園天皇をめぐる人々」です。

 

今日取り上げるのは「決められない政治」の象徴と某公共放送でレッテルを貼られてしまった細川持之です。これは某公共放送だけでなく、多くの先学がそう行っているので、通説に従う限り、細川持之は「決められない政治家」というイメージで語られることになります。

 

と、こう書いているのですから、私としてはその見方に対して疑問を持っている、ということになります。

 

そもそも私は「決められない政治」「決められる政治」という物言いを好みません。

 

細川持之です。彼は細川満元の次男です。兄は持元、弟は持賢です。持元が早死にしたため、彼が細川京兆家を継承することになります。

 

永享四年(1432年)、斯波義淳に代わって管領に就任します。そのころから幕府の指導層の世代交代が行われ、畠山満家・山名時熙・三宝満済によって主導されてきた幕政が細川持之・赤松満祐によって担われるようになります。

 

このころの将軍は有名な足利義教ですが、義教の代には管領の力は低下していました。個人的な意見を言えば斯波義淳のせいです。関東の取次であった義淳は関東の言い分を重視しすぎて他の守護大名と乖離してしまい、浮き上がってしまいます。義教も満済もかなり義淳の暴走には呆れている様子が見て取れます。義淳と比較的政治的立場の似ていた満家も距離を置いてしまいました。

 

義淳はそもそも管領にはなりたくなかったようです。甲斐常治らが「義淳は管領の器ではありません」と義教に直談判に及んだこともありました。ただ右大将拝賀では管領が斯波家という義満の故実を守りたかっただけです。右大将拝賀式が終わるとあっさりお役御免で誰もがハッピーになりました。

 

その影響を受けてか、御前沙汰という形で義教が直接訴訟に介入するようになります。またこのころ重臣会議と呼ばれていたものが、管領邸に集まって衆議する形態から、義教が個別に諮問する形態に変化します。管領は諸大名の衆議を集めて将軍とネゴシエートする役割から将軍を補佐する役割へと変貌します。

 

永享山門騒動では持之は義教と山門使節の間に立って汗をかきますが、最終的に義教は持之に山門使節を捕らえさせ、処刑させています。この辺、義教の言いなり、というイメージがありますが、そうではないところも見せています。

 

持之の被官に河野加賀入道性永という人物がいます。もとは足利義満の寵童の御賀丸の被官だったようですが、義満の死とともに御賀丸は失脚し、河野加賀入道も一部の書体を没収されています。その後は細川持之の被官だったようですが、彼が伊予国河野氏の関係者とすれば、もともと細川家の被官で御賀丸に出向していたのかもしれません。

 

彼の妻の連れ子が祇園社の関係者で、殺害事件に巻き込まれ、義教の糾明を受けますが、持之は最後まで河野加賀入道を庇いだてしています。その後は姿を見せていません。

 

函館の河野加賀左衛門尉という人物はその系譜は不明ですが、「加賀左衛門尉」という官途名乗りの「加賀」というところに着目すれば、もしかして・・・とも思いますが、確証はありません。

 

持之の人生を大きく変えてしまったのが嘉吉の乱でした。

 

義教が赤松満祐に暗殺されたのですが、その時持之は義教のお供をして満祐の屋敷にいました。嘉吉の乱では山名熙貴と京極高数が犠牲になり、大内持世は重傷を負って一ヶ月後に死去します。また細川持春は片腕を切り落とされる重傷を負い、三条実雅は股を斬られ、負傷します。

 

山名持豊細川持之らは現場から逃亡しますが、これは止むを得ない処置であると言えばそうです。ここで死ぬことは簡単です。しかし幕府はどうなるのか、管領である持之は何としても自分が生き延びなければどうしようもありません。

 

ここで持之を思いっきりディスったのが伏見宮貞成親王です。「御前において腹を切る人もない。赤松は落ち延びた。追いかけて討つ人もいない。残念なことだ。諸大名は赤松とグルか。よくわからない。所詮、赤松を討とうとした企てがバレて討ったということだ。自業自得の結果、どうしようもない。将軍がこのような犬死をしたことは前代未聞だ」(『看聞日記』嘉吉元年六月二十五日条)

 

特に持之は満祐と親しかったことが余計に疑心暗鬼を呼ぶことになります。万里小路時房にまで「赤松の謀反は持之と仲が良かったから内々で通じていたのではないか、という噂があって、そういうことがないのは明らかなのだが、それでも管領を襲撃しようというヤツがいるという噂がある。大内持世は持之を疑っていて「俺が死んだら家臣たちは残らず管領のもとにいって抗議の切腹をしてこい」と遺言したらしい(後で聞いたら嘘やった。「俺が死んだら残ったものは播磨に向かえ」という遺言)。噂のせいで落ち着かない」(『建内記』嘉吉元年七月十七日条)と言われています。

 

その後は持之は怒涛のような多忙に巻き込まれます。

 

まず朝廷への報告があります。追放された畠山持国が彼に代わって義教に取り立てられた畠山持永を追い落とそうとしている、という動きに対しての対応。山名持豊が都でヒャッハーしていることへの対応、赤松満祐から義教の首を返したい、という使者が来ましたが、それを処刑する必要、義教の息子たちを保護し、義教の兄弟を厳重な監視下に置かなければなりません。彼ら貴種は相手方に落ちたら旗印として使われます。

 

遅々として進まない征討軍の編成を進めるために朝廷に治罰綸旨を奏請する決断、しかもその綸旨は反対意見が多い中、後花園天皇が突っ切ってくれました。後花園天皇の決断がなければこの綸旨もなかったでしょう。

 

結果、三ヶ月後には無事赤松満祐を討伐することに成功しました。

 

しかし持之をさらなる悲劇が襲います。播磨に軍勢が進発したのを見計らったかのように土民が立ち上がり、徳政を要求します。嘉吉の徳政一揆の勃発です。これまで幕府は徳政一揆に対しては断固たる処置を取ってきました。しかし今回の一揆は様子が違います。あっという間に京都を包囲し、東寺に立てこもると、東寺を人質にして強硬な交渉をします。

 

金融業者である土倉は持之に献金をして一揆の実力排除を依頼します。土倉は幕府にとっては事実上の国庫にあたります。土倉が大きな損失を出しますと幕府の財政が破綻します。持之の判断はやむを得ないものでしょう。

 

しかし持之に抵抗した大名が現れました。河内から上京し異母弟の畠山持永を排除した畠山持国です。持国の被官が多く一揆に参加していました。一揆勢といっても専門的な軍事集団が多く参加していたのです。結局持之は献金を返却するほかはなく、メンツは丸つぶれとなりました。

 

持之は義教時代に処分された人々を赦免し、人々の気持ちをつなぎ止めようともしています。

 

嘉吉元年九月に赤松満祐は戦死し、翌年三月には満祐に擁立されていた足利直冬の孫と言われる足利義尊が討たれ、嘉吉の乱は一段落します。

 

その三ヶ月後の六月二十四日、嘉吉の乱一周年の日に出家します。その二ヶ月後、43歳の若さで亡くなります。細川京兆家はみな若死にしていますから短命な家系であることは事実でしょうが、嘉吉の乱後の一年間の激務が彼の生命を確実に縮めたことも間違いがないでしょう。彼もまた嘉吉の乱の犠牲者の一人だったのです。

 

後継者の聡明丸が元服して勝元と名乗り、京兆家を継承しますが、勝元はまだ若かったため、細川持賢を後見とします。

 

管領職は畠山持国が任命され、持国に対抗すべく勝元は山名持豊との連携を強め、禁闕の変にも関わっていくことになります。この辺は拙稿「禁闕の変再考」をご覧ください。

 

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今回の話の主要参考文献は以下の通りです。

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


籤引き将軍足利義教 (講談社選書メチエ)

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 


室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)