後花園天皇をめぐる人々−細川持之、後花園天皇綸旨発給の決断
嘉吉の乱で足利義教が弑殺され、細川持之が幕政を掌握することになりましたが、持之の優柔不断、無能ぶりが強調され、綸旨を出して嘉吉の乱を終わらせた後花園天皇の引き立て役になっている、というイメージがあります。
しかし実際には持之はかなり果断に嘉吉の乱の後処理を行なっており、かなり有能な人物であったようです。この辺は詳しくは石田晴男氏の『応仁・文明の乱』をご覧ください。
ざっくり言うと、当日の深夜に朝廷に丹波守護代内藤貞正を遣わして義教の死去と義勝による継承を伝え、天皇からは「頼りにしている」との勅答を引き出しています。翌日には諸大名を招集して後継者と治罰綸旨の奏請を決定しています。さらに赤松攻めの人員を決定し、管領が「政道を申沙汰する」という決定、つまり政務の管領による掌握が決定されています。さらに義教による処分を赦免することも決定しています。
翌々日には義教の兄弟四人と義嗣の子が鹿苑院に移され、警固されています。
綸旨については翌日には決定していたものの、三条実雅ー中山定親を通って万里小路時房のところまで回ってきたのは一ヶ月後でした。
この一ヶ月の間が結局「遅い、グダグダしてから止むを得ず綸旨を出したのか」というイメージになりますが、石田氏は根回しをしていた、としています。
万里小路時房のところに話を持ってきたのは中山定親で、「満祐を討伐することについては、将軍後継者が少年であるので、管領が政務をとっているが、人々はどう思っているのか、心もとないので綸旨を申請したい、と管領が言っている」と言ってきました。それに対し時房は「綸旨を申請するのは本義であり、実際永享の乱にも綸旨が出されているのは問題がないが、将軍家の家臣に勅裁を出すには及ばないが、申請がある以上綸旨を出すべき」と答えています。
この辺、今谷明氏の『土民嗷々』と石田氏とは少し認識にズレがあります。
今谷氏は基本的に持之を無能とみていて、それを自覚していた分、良心的であったと評価しうる部分があった。としています。それに対して石田氏は持之をしっかりとやるべきことをやっていると評価しています。
綸旨に関して言えば私は次のようにかんがえています。治罰の綸旨自体は永享の乱以降、特別なものではなくなっており、綸旨を出すことは既定路線であった。ただ問題は家臣である赤松満祐に対して綸旨を出す、というのがどうか、ということで朝廷内部には逡巡があった、と。時房がグズグズ言っているのも、清原業忠が下痢とゲロで会えない、と嘘を言ったのも、朝廷内部の反対論に配慮したものではないかな、と思っています。ポイントは後花園天皇がそれを押し切り、剰え自分で文案を考えたところで、後花園天皇による朝廷の掌握の第一歩が始まったのではないか、とかんがえています。