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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

源義家ー名将か凡将か

源義家といえば前九年の役後三年の役で活躍した名将の中の名将というイメージです。

 

しかし後三年の役の彼の動きを見ていると父の源頼義に比べると拙劣というか、下手くそというイメージがあって、河内源氏が急速に没落していく大きな原因ではないか、と思えます。

 

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義家大好きで凝り固まっていると、義家が停滞し、その子孫が没落していくのは悪辣な古代デスポットである白河法皇が策略をめぐらして台頭してくる正義の武士を叩き落とそうとした、というように描かれます。これは史的唯物論的見方ですが、実は皇国史観的なものの見方でも軍人に介入する愚かで頭の古い貴族と腐りきった院政という図式で描かれています。公家というのはどうもずるくてクズで最低という風に描かれがちです。公家ファンとしては残念です。まあ私も若い頃は公家は嫌いでしたけど。

 

義家が前線の指揮官としては優れていたのは事実でしょう。前九年の役でも陸奥守赴任段階で老境に差し掛かっていたどころかしっかり老人であった頼義に代わって実戦で奮闘したのは義家であると考えられます。

 

彼は前九年の役の功績によって出羽守になりますが、出羽国には清原武則鎮守府将軍として存在しており、腐った彼は越中守に転任希望を出しています。うーん、耐性がない。まあ前九年の役ではかなり頼義・義家サイドが清原氏に借りを作っているので仕方がないかもしれませんが。

 

下野守時代には大和源氏源頼俊の「衣曽」出征をバックアップしています。陸奥国で国の印などを盗んだ藤原基通を逮捕しています。

 

この頼俊の「衣曽」出征は後三条天皇即位後に行われており、これまでの北緯40度ラインを一気に津軽海峡まで押し上げる事業でした。しかし詳細は分からず、はっきりしているのは、陸奥守の頼俊のキャリアはここでストップしてしまったこと、逆に頼俊とともに「衣曽」征伐に参加した清原貞衡は鎮守府将軍に任命されたとされていますが、貞衡という人物はここだけでしか出てこないので、武則の孫の真衡ではないか、とされています。また武則の息子の武貞の婿で海道平氏の出自という説が近年では有力視されています。

 

いずれにせよこのころ清原氏の勢力は極大期を迎えます。

 

一方義家はそのころ白河天皇の側近となっていました。白河天皇の護衛役です。

 

白河天皇の護衛役や武士団同士の争いに介入して収拾するなど、こつこつと実績を積み重ねた義家は念願の陸奥守になります。

 

このころ陸奥国では清原氏の紛争が起きていました。清原武貞が死去したのち、真衡・清衡・家衡の三人が争いを始めたのです。清衡と家衡は同母で異父というややこしい関係ですが、安倍頼時の娘であった母を持つ両者は連携して真衡と対抗しますが、真衡死後は両者が争うことになります。

 

真衡が保持していた安倍氏の旧領の奥六郡を半分に分けますが、家衡と清衡はやがて対立し、義家は露骨に清衡を支持して家衡を挑発します。家衡は清衡を襲撃し、妻子を殺害しますが清衡は逃亡し、後三年の役が勃発します。

 

この戦いは家衡の討伐に手こずり、官符を求めますが、朝廷はこれを私戦と認定し、停戦命令を発すことも検討されていました。

 

結局義家は官符を得ることはできず、最終的には陸奥守を罷免され、受領功過定を通ることもなく、彼のキャリアは陸奥守で停止してしまいます。

 

そのころ義家の弟の源義綱が台頭し、藤原師通に重用されます。一方義家は陸奥守時代の不祥事で昇進が停止したままで、義綱は陸奥守を経て美濃守になります。しかし好事魔多し、義綱は美濃国延暦寺と対立し、関係者を殺してしまいます。それに対し義綱の処罰を求めた延暦寺の強訴に対し、剛毅な師通は弾圧を以って応じ、鎮圧してしまいますが、その四年後に38歳で死去します。この煽りを食らって義綱は失脚します。

 

義家にとっては復権のチャンスで、師通に抑圧されていた白河法皇に引き立てられ、受領功過定を通過し、院昇殿を許されます。義家に日の目が巡ってくるかに思われました。しかし白河の強引な引き立ては彼への反発を呼びます。

 

長男の源義親対馬で反乱を起こします。義家が遣わした郎党も現地で義親に合流し、義家のメンツは丸つぶれになります。さらに息子の源義国が義家の弟の源義光と合戦に及び、義家に収拾が命じられますが、その最中に68歳で病死しました。

 

彼の死後には河内源氏は急速に没落していきます。義家のあとは息子の源義忠が継承しますが、台頭してくる伊勢平氏との関係で協力関係を結んだことで河内源氏内部の不満は高まり、叔父の義光に暗殺されます。しかも当初は義綱の子の犯行とみられたため、義綱らは失脚し、子は殺害、義綱も流罪に処せられます。そして真相がバレた義光も常陸国に逃亡し、失脚します。あとには謀反人義親の子で若年であった源為義が遺され、跡を継ぎますが、為義はコネを持てなかったために受領になることすらできず、河内源氏伊勢平氏のはるか後塵を拝することになりました。

 

この辺の参考文献として是非とも読んでいただきたい文献をとりあえず三つ挙げておきます。

 


源義家―天下第一の武勇の士 (日本史リブレット人)

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 


白河法皇 中世をひらいた帝王 (角川ソフィア文庫)