記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

京極導誉書状(『朽木家古文書』55 国立公文書館)

婆娑羅大名と呼ばれた佐々木京極導誉の書状です。

 

京極導誉は道誉の方が有名です。「京極導誉」でグーグル先生に聞くと「もしかして京極道誉?」と聞かれます。

 

自署では「導誉」なので「導誉」が正しいのですが、「入道々誉」と書かれるので「道誉」が有名になりました。

 

京極家は佐々木信綱の四男氏信を祖とする家です。高島郡浅井郡・愛知郡など近江国北半分6郡の地頭職と京極高辻の屋敷を継承し、京極氏を名乗ります。宗家は六角氏といいます。

 

鎌倉時代末期に高氏が出て北条高時のもとで出世し、その後は足利尊氏に従って京極氏を有力守護大名に押し上げました。

 

彼はその派手な振る舞いから婆娑羅大名と呼ばれていました。妙法院ともめた時には流罪に処せられながら、派手な格好をして道道酒宴をしながら配所に向かい、しかもその時に比叡山の守り神である猿の毛皮をつかった靭を身につけ、比叡山を揶揄したと伝わります。

 

南朝方の楠木正儀との交友は知られており、南北朝の和睦を推進しようとした人物でもあり、公武の交渉にも活躍するなど、下克上的な側面で見るべきではない、という見方が出てきているようです。

 

延暦寺と佐々木氏は近江国の権益をめぐって鋭く対立しており、導誉のイメージにこのエピソードは大きく寄与していますが、下克上という文脈で捉えるべきではないというのも道理かと思います。

 

それでは現物を。

 

f:id:ikimonobunka:20190618231709j:plain

京極導誉書状 朽木家古文書55 国立公文書館

 では釈文を。

吉野發向事、被仰下候

間、今日令上洛候、来廿一日

可立京都候、廿日以前令

京着給候者、公私悦入候

恐々謹言

閏七月十二日  沙弥導誉(花押)

謹上 出羽四郎兵衛尉殿

 

一行目の二字めの「野」がくずれています。左右の展開を上下にしているのでややこしいです。「候」も小さい点ですが、ごく普通です。

 

二行目一字めの「間」も「門」が小さく、下に「日」がある形が「間」の基本形です。「今日」とか「来」とか、上下に伸びているので掴みにくいです。この辺動画で解説した方がいいかもしれないな、というところです。やはりこういう静止画で古文書を解説するのはかなり難しいものがあります。もちろん慣れていればわかるのですが。

 

三行目ですが、「京都」の下の点が「候」なのはいいとして、「以前」も典型的なくずし方なのでしっかりと覚えていくようにしましょう。

 

四行目の「着」とか「給」という字は少し難解ですが、「給」自体は頻出の文字でもあります。「悦」もよくみかけます。

 

日付の上の「壬」は「閏」のことです。時々これを「壬」と呼んでいるサイトがありますが、この辺は声を大にしていいたい。「壬七月」ってイミフすぎ。

 

読み下し。

 吉野発向の事、仰せ下され候間、今日上洛せしめ候。来たる二十一日に京都を立つべく候。二十日以前に京着せしめ給い候わば、公私悦び入り候。恐々謹言。

 

この文書は前後のつながりから建武五年(延元三年、1338年)発給と考えられています。この年の五月には北畠顕家が、この文書の日付の十日前の閏七月二日には新田義貞が戦死しており、一気にカタをつけようとしたのかもしれません。しかしこの後の一連の56・57・58号文書を見ると、吉野から南都に目的地が変わり、九月になってもまだ「出羽四郎兵衛尉」こと朽木頼氏は催促に応じていません。導誉の苛立ちが伝わってくる文書が残されています。