保元の乱の過程2−戦争の日本史
時はいいころ(1156)保元の乱
武者の世のはじまりと言われる保元の乱ですが、『保元物語』に基づく保元の乱のイメージが強く存在しています。それに対して『愚管抄』を通じてみると少し異なるイメージが出てきます。
『愚管抄』は藤原忠通の息子の慈円が書いた書物で、忠通はいわずもがな保元の乱の一方の当事者です。後世に書かれているので二次史料ですが、一次史料に準ずるものとも言えます。他に一次史料としては忠通に仕えていた平信範の『兵範記』もありますが、今手元にあるのが陽明文庫の写真版だけなので今回は見送ります。
『愚管抄』の注意点としては彼は忠通の息子ですから徹底的に頼長や崇徳上皇を批判する立場に立っているということです。彼の頼長評はかなり悪辣に書かれており、忠通については大変美化して書かれている可能性が高い、ということになります。
参考文献としては以下の二つが代表的なものと言えましょう。
まずは河内祥輔氏のこれです。特に平治の乱の大胆な解釈は議論を呼びました。
続けて元木泰雄氏のこれです。河内説を真っ向から批判した書でこの二つを合わせて読めばかなり詳しくなるかと思います。
さらに呉座勇一氏のこの本でも保元の乱について述べられています。
まず『保元物語』を読む限り、後白河の皇位継承に不満を持つ崇徳と忠通に不満を持つ頼長が手を組んで後白河・忠通体制にクーデタを起こした、というように捉えられがちです。
この見方は現在では否定的に捉えられることが多いです。一つだけ今までの見方で正しいのはこの内紛が天皇家の後継者争いと摂関家の後継者争いである、ということですが、もう一つ重要な対立軸が見落とされています。それは院政に伴って勢力を拡大してきた院近臣と呼ばれる新興の公家集団と摂関家との対立です。
忠通を追い落として摂関家の主導権を掌握した頼長はその強烈な自負から院近臣層と対立します。特に彼は院近臣層出身の美福門院を侮り、美福門院および近衛天皇から忌避されていきます。
近衛の死後、頼長は忠通の計略にはまり失脚します。近衛を呪詛したという疑いをかけられ、妻の服喪期間中であったために弁明も許されず内覧の権限を奪われます。
鳥羽の死去の時に崇徳を死に目に会わせず、崇徳を失脚させた後白河サイドですが、後白河サイドの主要勢力は院近臣です。彼らは鳥羽の権威のもとに権勢を振るえたわけであって、鳥羽がいなくなれば美福門院も後白河も権威を失いかねません。一方、崇徳は失脚したものの、本来は白河ー堀河ー鳥羽ー崇徳と「正統」を継承しています。和歌にも堪能で当代の文化を担った崇徳は場合によっては正統の君主に返り咲く可能性があったわけです。
したがって現在の研究では保元の乱は一刻も早く崇徳と頼長を亡き者にしなければならなかった後白河サイドの挑発によるものとされています。
鳥羽の死去から三日後には後白河派は本来崇徳に近かった伊勢平氏の切り崩しに成功し、頼長を謀反人認定します。頼長は宇治に退いて謹慎しますが、肥前国への流罪が決定しました。
ここで崇徳が思わぬ動きに出ました。崇徳は上西門院統子内親王の居所であった白河殿に侵入しました。これは後白河サイドはもちろん頼長も知らなかったと見られます。頼長はあたふたと宇治を出て白河殿に向かいます。
実はこの両者は特に親しい関係ではありませんでした。それどころか頼長は鳥羽存命中には皇太子守仁親王への奉仕を申し出るほどでした。しかし忠通の計略によってすっかり頼長を憎んでしまっていた鳥羽にはにべもなく断られています。鳥羽から阻害され、失脚した両者が追い詰められて急遽連携した、という見方が主流です。
頼長は急遽武士を集めますが完全に出遅れてしまいました。伊勢平氏を抑えられてしまった以上、伊勢平氏の中でも反清盛だった平忠正と河内源氏の源為義が中心でしたが、彼らも用意出来た手勢は少数でした。
この様子を見た為義が崇徳と頼長に献策します。「宇治にお逃げください。そこから甲賀、さらには坂東にお逃げになることもできます。我々は御所に参って一合戦いたします」と。要するに逃げろ、と言っているわけです。頼長はそれを却下します。「まあそう急ぐな。夜明けになれば興福寺から援軍が来る」と。
これは結局頼長や崇徳が逃げれば完全に詰んでしまうことを頼長はわかっており、為義は坂東に逃げればなんとかなると思っていたことを示します。実際彼らが京都を退出した瞬間流れは完全に後白河派に流れるでしょう。崇徳サイドはここで踏ん張るしかなかったのです。
これは崇徳・頼長にとって唯一の活路でもあった、と言えます。白河殿に入った、という政治的な意味合いは、崇徳が自らを白河の正嫡であると宣言したに等しいわけです。崇徳の目算は公家たちが白河殿に参集するのではないか、というところにありました。崇徳と頼長は興福寺の援軍以上に貴族層の参集を待っていたのではないでしょうか。
一方後白河サイドでは源義朝と信西が忠通に夜襲を迫っていました。しかし忠通は許可を出しません。忠通としてはできれば圧力をかけて頼長が自発的に退去することを願っていたのです。圧倒的な軍事力を背景に圧力をかけて崇徳陣営の自壊、つまり頼長らが宇治に引き退くことを願っていたのではないでしょうか。
忠通は苦渋の決断を下します。「排除しなさい。」ここに崇徳と頼長の命運は極まりました。
保元の乱がどの程度の規模の戦いだったかは議論が分かれています。ほとんど死傷者を出していない、という考え方もあれば、結構激しい戦闘だった、という考えもあります。少なくとも後白河サイドは圧倒的な兵力を持ちながらも攻めあぐねたことがわかります。最終的に放火して火攻めにすることで決着が付いています。
崇徳と頼長は逃亡しますが、やがて崇徳は捕縛され、讃岐国に流罪となります。これまでの常識であれば出家してうやむやにするところですが、異常に厳しい処分となりました。
頼長は梅津から淀川水系に入り、木津に向かいますが、そこで死去します。
忠実も謀反の疑いをかけられます。院近臣層は摂関家の解体に取り掛かろうとしていました。結局忠通が抵抗してなんとか忠実の断罪は見送られました。保元の乱を通じて摂関家という巨大複合権門は解体され、王家という新興の巨大複合権門の権威も大きく傷つきました。
この乱における藤原忠通の立場について、しばしば無能とか優柔不断という見方がなされますが、その辺に疑問を呈した山田邦和氏の議論をあげておきます。
この著作の中の「保元の乱の関白忠通」です。2009年の論考です。アマゾンで26000円するので図書館などで読まれるとよろしいでしょう。
保元の乱がなぜこのような陰惨な武力衝突にいたり、その処断も苛烈を極めたか、と言えば両者の実力差が小さく、武力を確保した方が圧倒的に有利になったからです。両者の実力差に圧倒的な違いがあれば、武力を行使しなくても相手を屈服させることができたはずです。現に鳥羽は武力による威嚇だけで延暦寺を抑え込むことに成功しました。後白河派の勝利ではありましたが、その勝利は薄氷を踏むようなものでした。