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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

保元の乱3−戦争の日本史

保元の乱の主役は鳥羽・崇徳・後白河・藤原忠実・忠通・頼長であることは論を俟ちませんが、もう一つは伊勢平氏平清盛河内源氏源義朝でしょう。特に義朝はこの戦いでその地位を飛躍的に向上させ、清盛に次ぐ軍事貴族の地位を手に入れます。

 

伊勢平氏平貞盛の子の平維衡が伊勢北部に拠点を築いたことをきっかけに伊勢平氏と呼ばれます。彼は伊勢守になっていますが、それ以前から伊勢国に勢力を築いていたようです。ただいつから、何故に伊勢に基盤を持つようになったかは今ひとつ明らかでもないようです。

 


増補改訂 清盛以前 (平凡社ライブラリー)

 

 東国で平直方河内源氏源頼義の影響下に吸収されていくと、元来東国で広く栄えていた桓武平氏河内源氏の影響下に入っていき、東国は河内源氏の有力な地盤となります。

 

伊勢には良兼流の平致頼平維衡が争っており、最終的に貞盛流の平維衡が勝利して伊勢平氏の源流が成立します。

 

維衡やその息子の平正度は伊勢に地盤を築きながら都に拠点を持ち、受領を歴任するという中下級貴族として存在し、11世紀における家格の成立・固定期の競争の中で地位を低下させ、官歴の最後に受領に到達するという下級貴族、いわゆる侍品と呼ばれるレベルに低下します。

 

平正盛源義親を討伐して一気に時流に乗りますが、その背景には院近臣という院との個人的な関係を通じて引き立てられる勢力が出現し、院にその能力を通じて勤仕することによって財をなし、勢力を広げていくことがありました。白河院の乳兄弟であった藤原顕季が白河院に引き立てられ、その孫の美福門院が鳥羽の寵姫として権勢を振るい、頼長と対立したことは前述しました。

 

正盛の子の平忠盛も鳥羽に気に入られ、一気に勢力を伸ばしていった側です。その子の清盛になると若年で累進をとげ、もはや中級貴族を脱して上級貴族に届こうとする勢いでした。忠盛の妻の藤原宗子重仁親王の乳母となっていました。

 

伊勢平氏はそういう意味では彼らは崇徳院と関係を深めていったと考えられます。鳥羽の葬儀には伊勢平氏は呼ばれませんでした。しかし宗子が後白河へつくことを指示したために伊勢平氏は崇徳を見限り、後白河派に急遽参戦することになります。7月5日、頼長を謀反人認定する時に警備についた武士の中に平基盛の名が見えます。保元の乱勃発の四日前でした。

 

乱後は崇徳を見限り、後白河へ寝返ったことで最大限の恩賞を拝領することになりました。安芸守から播磨守への転任となり、清盛は参議にあと一歩とせまります。

 

河内源氏はその東国での基盤が有名ですが、本来は河内国が地盤です。ただ頼義の代に平直方の婿となって直方の勢力を継承したことで東国での地位を固めていきます。しかし義家の末期から義親の乱、義忠の暗殺、義綱と義光の争いを経て急速に没落し、為義は受領にすら届きませんでした。

 

義家は白河の院近臣でしたし、為義も白河・鳥羽の院近臣としてスタートしていますが、為義は自身の不祥事も響いて低迷し、摂関家に接近することで失地挽回を図ります。

 

義朝は為義の嫡子にはなれず、早くから東国に勢力を築くことに専念します。当初は為義と共同歩調を取っていましたが、やがて関東の豪族の争いに介入して勢力を拡大し、東国を河内源氏の牙城とすることに成功します。実は東国と河内源氏の関係が強化されたのは義朝の代です。

 

義朝は為義と共同歩調をとっていた段階では摂関家と関係を持っていましたが、東国で独自の基盤を築くと都で院近臣であった藤原季範の娘や近衛天皇中宮の雑仕女であった常盤御前と婚姻関係を結び、急速に鳥羽の院近臣としての地位を築きます。その甲斐あって義朝は父が届かなかった受領の下野守に31歳で任ぜられ、翌年には右馬助を兼帯することになります。

 

為義はその対抗のために頼長と関係の深かった次男義賢を武蔵国に遣わしますが、義朝の長男の義平に滅ぼされます。

 

義朝は保元の乱では抜群の勲功を挙げ、右馬権頭となりますが、不満をとなえ左馬頭となります。

 

この義朝の恩賞に対しては義朝は不満であり、それが平治の乱への伏線となる、という考え方が主流でした。しかしそもそも正四位下で大国安芸守の受領であった清盛と、従五位下の下野守の義朝では同等の恩賞は求むべくもないものであり、義朝は保元の乱に関してはそれほど不満を持っていなかった、という見方が有力になってきています。

 


保元の乱・平治の乱

 


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

それに対してその考え方は公家の考え方ではあっても武家の義朝の考え方と一緒とは限らないだろう、という反論もあります。

 


中世初期の〈謀叛〉と平治の乱

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

実際、当時の軍事貴族、いわゆる「兵の家」と呼ばれる「武家」では他の貴族とは若干違う行動原理で動いているのも事実で、軍事貴族が単に都のみで発展を遂げたのではなく、都と地方のハイブリッド、ということも踏まえるならば、その辺を考慮する必要もあるかと思います。

 


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

 

 武家の特徴として前の当主の妻が大きな権限を掌握することが挙げられます。承久の乱における北条政子の果たした役割は有名ですが、武家とは無関係な家から武家に入ってきた藤原宗子の場合を見ても、先年死去した忠盛の妻である宗子が保元の乱における伊勢平氏全体の帰趨を決定づけたことを見ても、武家における後家の権限の強さというのは特筆されます。もし宗子の決断が違っていればその後の歴史も大きく変わっただろうと思われます。