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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

稀代の寝業師藤原忠通

寝業師という言葉があります。私は故根本陸夫氏を思いつきます。裏工作が得意な人ということですが、根本氏も緻密な情報網を駆使して大胆なトレードを仕掛けたり、有力なアマチュアを裏技的な手法で入団させたりして西武やダイエーソフトバンクを強豪球団に変貌させました。

 

藤原忠通もその意味では寝業師といってよいでしょう。

 

藤原忠通百人一首では「法性寺入道前関白太政大臣」として入っています。

わたの原 漕ぎ出でてみれば 久かたの 雲ゐにまどふ 沖つ白波

 

保元の乱後白河天皇側について藤原頼長らを破った人物という印象しかありません。さらに『保元物語』に基づく「崇徳・頼長によるクーデタ」というイメージが強く着いてしまっているために忠通の凄みが伝わりづらい、という面もあります。

 

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藤原忠通 天子摂関御影

 

忠通は藤原忠実の嫡男ですが、忠実が次男の頼長を偏愛したため、関白とは名ばかりの宙ぶらりんの前半生だったようです。そのような中で彼は院近臣層への接近を図ります。摂関家のプライドと強烈な自負意識によって院近臣との対立を先鋭化させていった頼長とは逆に彼は院近臣との連携に活路を見出したのです。

 

忠通の話は山田邦和氏の「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』思文閣出版、2009年)に依拠しています。

 

近衛天皇の四条東洞院殿が放火によって炎上し、避難先の小六条殿も放火によって避難を余儀なくされ、忠通の提供した近衛殿を里内裏と定めることとなりました。これは結果的に藤原頼長の養女の多子(まさるこ)を近衛から引き剥がすことに成功したことになります。

 

さらに忠通は白河法皇と待賢門院との不義の子が崇徳である、という醜聞を鳥羽に吹き込みます。これが本当かどうかは議論の分かれるところですが、少なくとも鳥羽はこれを事実と信じ込み、崇徳に対する恨みを募らせていきました。

 

忠通とて崇徳との関係はもともと悪くはありません。忠通の娘の皇嘉門院藤原聖子は崇徳の中宮でした。したがって崇徳が治天の君になることについては忠通にとって悪いディールではありません。しかし忠通の狭量なところがこういうところで出ます。忠通は皇嘉門院ではなく兵衛佐局という女性との間に唯一の皇子重仁親王を生んだことで忠通と崇徳の関係は悪化します。重仁親王伊勢平氏を後ろ盾として時期天皇の座を狙うこととなります。

 

近衛天皇を完全に囲い込んだ忠通は、病状の悪化した近衛から譲位の意思を知らされると鳥羽に対して守仁親王への皇位継承を進言して鳥羽から叱責されます。これで忠通の立場は再び悪化しましたが、近衛の死去の際にその死因を忠実・頼長による呪詛であると訴え出たことで再び表舞台に立つことに成功します。

 

頼長にとって不幸だったのは姉の高陽院が死去したことでした。彼女は鳥羽の皇后となっていましたが、忠実・頼長と鳥羽を結ぶ重要なパイプだったのです。彼女の死去によって鳥羽と忠実・頼長の関係は断ち切られてしまいました。

 

近衛の後継者を選ぶ時に雅仁親王を強く推した忠通によって雅仁即位の道筋がつけられ、雅仁ー守仁という皇位継承のラインが引かれます。実はこの段階に至っても重仁親王皇位継承の候補に残っていたようですが、忠通が主導権を握った以上は重仁即位、崇徳の治天の君の可能性は残されていませんでした。ちなみに美福門院は重仁・守仁双方を天秤にかけています。

 

鳥羽法皇の死去に当たって後白河陣営は活発な切り崩し工作を行います。鳥羽の葬儀には伊勢平氏は参列していません。重仁親王の乳母だった池禅尼を擁立する伊勢平氏は崇徳派とみられていたのでしょう。しかし三日後には池禅尼の決断によって伊勢平氏は崇徳を見限ることにしたようです。この段階で崇徳は詰みました。

 

と同時に後白河派は源光保を派遣して摂関家の本邸の東三城殿を接収し、頼長を謀反人認定します。

 

ここまでは忠通の筋書き通りに進んでいたとみてよいでしょう。崇徳は政治的な権力を永久的に失い、頼長も完全に失脚しました。忠通としては頼長は流罪という名目で摂関家領に一旦退いた後に復帰させて儀同三司にでもすればいい、と考えていたのではないでしょうか。崇徳も和歌の道に没頭させれば手駒としては使えます。

 

しかしここから事態は忠通の想定から離れていきます。

 

崇徳が白河殿に侵入し、挙兵したのです。これについては誰もが予想外でした。宇治に退いていた頼長もあたふたと白河殿に駆けつけます。その後崇徳と後白河の間で何回か交渉があったようです。山田氏は崇徳を治天とし、重仁親王立太子藤原頼長復権を要求したのではないかと考えていらっしゃいます。しかしこの条件は忠通にとっては受諾できるはずもなく、決裂します。

 

伊勢平氏河内源氏の主流を抱え込んだことで忠通サイドは圧倒的に有力になりました。忠通としては熟柿が落ちるのを待てばよかったのです。圧倒的な武力を背景にすれば頼長らは没落するしかありません。兵を集めて挙兵した以上は崇徳も頼長も無事ではすみませんが、逃亡すればまだ許される可能性はありました。

 

そのころ崇徳のもとに集った源為義が提案した夜襲は最終的には頼長らの離脱を示唆するものでした。これは同時に忠通にとっても望ましい展開だったでしょう。

 

しかし崇徳と頼長は徹底的に抗戦する道を選びます。武力で崇徳らを排除するのか、忠通は苦悩します。信西源義朝は口々に早期武力行使を主張し、彼らに押し切られる形で忠通は排除を命じます。

 

この忠通の「目をパチパチさせて見上げるばかりであった」という逡巡が忠通の怯懦なのか、忠通の熟慮なのか、議論は分かれます。その後の忠通の運命に与えた影響についても議論は当然分かれます。ともあれ義朝らによる排除は成功し、崇徳は讃岐へ流罪、頼長は逃避行の後に死去し、その墓を暴いて検死が行われました。

 

乱後、忠実も頼長と与同したと見なされ、所領没収の危機にあいますが、忠通の奔走で忠実は辛うじて赦免され、晩年は知足院に幽閉されたままその生涯を閉じます。

 

忠通は改めて後白河から氏長者に任命されるという屈辱を受け、抵抗するも最終的には押し切られます。保元の乱を通じて摂関家の権威は大きく傷つき、摂関家天皇家に従属する権門となってしまいました。