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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

崇徳上皇

一言で言えば悲運の人です。

 

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崇徳院 天子摂関御影

歌人として知られており、百人一首では77番の歌です。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

 

鳥羽天皇の長子として待賢門院藤原璋子との間に産まれ、諱を顕仁といいます。曽祖父白河法皇の意を受けて鳥羽から譲位され皇位を継承します。まさに「正統の天皇」というべきスタートでした。しかし白河が没した後、鳥羽の寵愛は待賢門院から美福門院得子に移ります。

 

とは言っても待賢門院は閑院流藤原氏の出で、由緒正しい家柄です。対して美福門院は魚名流藤原氏の末裔で、長い間公卿になることもできず、受領などを歴任していた家系です。それが藤原顕季が白河の乳兄弟であったことから院近臣として台頭してきた家系です。美福門院の兄の藤原家成の家には若き平清盛が出入りしていました。平清盛の属する伊勢平氏もまた院近臣として急速に台頭してきた家系です。

 

崇徳といえば待賢門院と白河の間に生まれた不義の子で、鳥羽から見れば叔父にあたる、というので「叔父御皇子」と呼ばれ、鳥羽から忌み嫌われた、という伝説があります。これに関しては肯定説、否定説がありますが、実際のところは分かりません。ただ『古事談』にのみ見えるところから、当時囁かれた噂ではあったようで、最終的にこの風説が彼の運命を暗転させることになります。

 

ただ鳥羽が終始一貫して崇徳のことを忌避していたか、というと私は少し疑問があります。もしそこまで鳥羽が崇徳のことを忌避しているのであれば、崇徳の皇子の重仁親王を美福門院の猶子にして伊勢平氏のバックアップを付けたりはしないでしょう。鳥羽は場合によっては崇徳に治天の地位に就かせても構わない、と思っていたのではないか、と考えます。

 

ただ崇徳と鳥羽の関係が円滑でなかったのは、崇徳が白河から「正統」を引き継いでいる側面があったからではないでしょうか。崇徳の正統性は白河によって担保されているのです。

 

鳥羽は自らの皇統を作ろうと企図して白河によって決められたのではない近衛天皇を選び、美福門院の子孫に皇位が継承されるようにしました。しかし近衛は病弱で1153年には失明寸前に至り、譲位を考えるようになります。忠通はこの時崇徳の同母弟の雅仁親王の皇子の守仁親王を擁立しようとして「関白狂へるか」と忠実に呆れられています。

 

近衛は一旦は回復しましたが、行く末は見えており、崇徳の皇子の重仁親王守仁親王が美福門院の猶子として万が一に備えることとなります。そして近衛の死去で忠通が今度は雅仁親王を推し、後白河天皇即位ということになります。

 

崇徳を追い込んだのは鳥羽よりは忠通でした。忠通は自分の娘の皇嘉門院が皇子を生まず、他の女性から皇子が生まれたことを根に持ち、崇徳の排斥に取り掛かりました。待賢門院と白河の話を吹き込んだのは忠通ではないかと考えられています。

 

そして鳥羽の死に目に安楽寿院に向かった崇徳は鳥羽に面会を断られます。鳥羽の死去を境に大きく政局は動き、「上皇左大臣が謀反を企てている」として厳戒態勢が取られ、摂関家の本拠地で氏長者頼長の管理下にあった東三条殿が源光保らによって没官されます。元来崇徳を支える有力な勢力であった伊勢平氏を切り崩した後白河サイドは崇徳と頼長をまとめて処分しようとしたのです。

 

追い詰められた崇徳は誰も想定していなかった動きに出ました。白河院のゆかりの白河殿に無断で侵入し、武士を招集したのです。頼長も知らされていなかったと見え、あたふたと白河殿に向かっていますが、個人的に不思議なのは、崇徳と頼長はいつのまに連携関係になっていたのか、ということです。近衛死去時に頼長が失脚し、崇徳が治天の君の可能性を失ったのがきっかけでしょうが、彼らを結びつけたものはなんだったのか、私としてはすっきりしていません。もう少し勉強します。

 

白河殿に篭った崇徳は後白河に対して何回か使者を遣わして交渉しています。山田邦和氏は崇徳を養父として治天の君にすること、重仁親王を皇太子にすることではないか、と推測していらっしゃいますが、私も従いたいと考えます。

 

交渉は敗れましたが、そもそもこのような無理ゲーをなぜ崇徳はあえてしたのか、どこがポイントオブノーリターンだったのか、考える必要があります。また崇徳がもし挙兵しなければ彼の運命はどうなっていたか、とか、いろいろ考えたいところがあります、もっともそれらは「もし」なのであまり好まれない問いではあります。しかし故棚橋光男氏は次のように書いています。

「歴史に〈もし〉はない」「歴史の〈もし〉は禁句だ」などというわらうべき俗言がある。しかし、私に言わせれば歴史はまさしく無数の〈もし〉の集合体なのだ。そして、そのいくつもの〈もし〉が切り捨てられていく政治のダイナミズムの追跡、これこそが真の政治史、政治史の王道にほかならないのだ。(『後白河法皇』「プロローグ」)

 


後白河法皇 (講談社学術文庫)

 

 乱後、為義らに擁立されて東山に逃れますが、御室仁和寺にいた同母弟の覚性法親王を頼りますが、捕縛され、讃岐に流罪となります。彼が剃髪したのはそれで許されるだろうという甘い目論見があったのでしょうが、出家剃髪したところで院政期には治天の君になることができるため、政治的に無力にするには淡路廃帝以来の天皇経験者の流罪という過酷な処分が要求されたのです。

 

崇徳は写経に専念し、その経本を都に納めてほしい、と送りましたが後白河はそれを送り返し、崇徳の死去にも何もせず、讃岐院という追号を贈るに留められました。しかし20年後に建春門院や六条院が次々と亡くなり、また延暦寺の強訴や鹿ケ谷事件などの事件が頻発すると「讃岐院の祟り」という風説が流れ、崇徳院という追号が付けられました。これ以降非業の死を遂げた天皇には「徳」の字を付けた諡号が贈られることとなりました。