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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

平治の乱における源氏と平氏の関係

7月11日(木)のオンライン日本史講座のお知らせです。

 

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今回は平治の乱を取り上げます。

 

平治の乱といえば、教科書的理解では平氏信西の連合に対して不満を持った藤原信頼源義朝が連携して平清盛の留守中に後白河上皇の御所を襲撃して平治の乱が起こりましたが、清盛が帰還してから形勢が変わり、信頼は処刑、義朝も討ち取られ、平清盛の覇権が確立した、という説明がなされます。

 

これは『平治物語』『愚管抄』に依拠したものですが、系図を仔細に見るとその説明では通じないところが出てきます。

 

信西と清盛vs信頼と義朝という図式ですが、まず清盛は信頼の嫡子の信親を養育しており、清盛の娘は信親の妻となっていました。もっとも信親はまだ幼児だったので、婚約者というべきでしょうが。

 

次に信西の息子の藤原成憲が六波羅に逃亡してきた時、留守の平氏はあっさり成憲を信頼に引き渡しています。おかげで成憲は流罪となりました。考えてみれば六波羅には信頼の嫡子の信親がいるのですから、六波羅は信頼派と信西派の両方の利害関係者だった、ということが言えるでしょう。

 

清盛は都に帰るときに一切妨害を受けていません。これについて『愚管抄』は義朝が準備が整っていなかったから、としており、『平治物語』では源義平が三千騎で阿倍野に布陣している、という噂が流れ、清盛は西国に逃亡しようと考えた、とありますが、実際には義平は来ておらず、そもそもその計画があったのか、ということも不明です。

 

もう一つ、入京した清盛は信頼に名簿(みょうぶ)を差し出し、異心のないことを誓約しています。藤原公教の計略で清盛の屋敷に二条天皇行幸させるという計画が持ち上がり、その実行を確実にするために信頼を油断させるためなのですが、もし信頼と清盛が緊張関係にあれば、その紙切れ一枚で信頼が清盛を信用するとは思えません。もともと信頼関係があったところに、清盛不在中に事件を起こし、政局が急速に動く中で、清盛と信頼の関係が変化していないことを確認する、と信頼サイドは把握したのではないでしょうか。

 

清盛が信西と信頼の双方に密接な関係を取り結んでいたことを考えれば、成憲を信頼に引き渡したことも、信頼に異心なきことを言明することも、それが公教の計略であることも筋が通ります。

 

また清盛が不在中に信頼がこの事件を起こした理由も、信頼と信西の双方に利害関係のある清盛の動きが不確定要素になることを信頼・義朝が嫌ったから、と考えます。したがって信頼としても清盛の意向は気になっていたでしょう。そこに清盛の方から信頼に加担する、という言質を得たわけです。信頼は喜ぶ、というよりは安堵した、という方が近いかと思います。

 

ただこの段階では清盛はすでに信頼・義朝を見限っていました。公教の誘いに清盛が乗ったのです。清盛が公教の誘いに応じて信頼・義朝を見限った理由として考えられるのは、今回の平治の乱で義朝は播磨守に任官し、位階も「四位」となりました。正四位下の清盛との差が仮に従四位下としたら二段階差まで詰めてきたわけです。清盛にとって義朝の急速な昇進は気味が悪いものだったでしょう。そこを公教は突いてきたのではないでしょうか。

 

つまりこの戦いは義朝が清盛に不満を持ったのではなく、清盛が義朝を警戒したために清盛と義朝は戦うことになったのです。

 

しかし源氏と平氏という有力軍事貴族の衝突というのは、この平治の乱の最後の武力の衝突の一側面にすぎません。本筋は軍事貴族の対立ではなく、二条天皇後白河上皇の争い(議論あり)と院近臣の争いです。その辺の事情については次に説明します。

 


保元の乱・平治の乱

 


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