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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

平治の乱後白河主犯説

7月11日(木)のオンライン日本史講座のお知らせです。

 

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河内祥輔氏は平治の乱の主犯を後白河上皇とする斬新な説を唱えています。

 


保元の乱・平治の乱

 

それに対し元木泰雄氏はその見方を厳しく批判しています。

 


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

呉座勇一氏も河内氏をとりあげ、同じく批判していますが、元木氏ほど強い否定はしていません。

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

 学術的な著作としては古澤直人氏の次の研究があります。

 


中世初期の〈謀叛〉と平治の乱

 

 河内氏の後白河主犯説について見ていきたいと思います。

 

河内氏の主犯説のとっかかりは信西の位置づけでしょう。信西源義朝の襲撃を間一髪で逃れ、信貴山まで逃亡します。そこで彼は自らを生き埋めにしてそのまま死のうとします。しかし絶命に至る前に見つかり、持っていた短刀で自らの胸を刺し貫き、壮絶な自死を遂げます。

 

信西はなぜ自らを生き埋めにさせたのでしょうか、それは信西は自らに降りかかる災難を予見していたから、と河内氏は主張します。

 

信西の危惧は当たりました。信西の首は都大路に梟首されたのです。つまり晒し首、獄門です。これは国家・天皇への反逆者に限られる重罪です。信西天皇への叛逆の疑いで処断されたのです。

 

信西にかかる重罪をかけることのできる人物は院政を敷いていた後白河しかいません。河内氏は源義朝による東三条殿襲撃は後白河の指示である、と考えます。しかし義朝のチョンボで火災が起こり、信西やその関係者はどさくさに紛れて逃亡します。つまりあんなにおおごとになってしまったのは、義朝のミスであり、あんなにおおごとになるとは思っていなかった、というのです。

 

その後後白河は二条天皇のもとに移動します。河内説ではこの段階では二条と後白河の間の対立はなかった、と考えます。

 

信西はなぜ殺されなければならなかったのか、といえば、後白河を退位させ、二条天皇の近侍に藤原俊憲を配置したことを後白河への裏切りと捉え、信西を粛清しました。

 

もう一つ、後白河にとって重要なのは二条天皇の弟宮の存在でした。後白河は二条天皇が鳥羽の正統を次ぐ存在であることに対し、自分が制定する新たな皇統を作ろうと考えていました。その弟宮が間もなく仁和寺で出家する手はずになっていた、というのです。したがって後白河主導によるクーデタは平治元年の年末に起こされたのです。これを越えると弟宮は仁和寺にいってしまい、手遅れになります。

 

信西を殺し、二条のいた大内裏にずかずかと入ってきた後白河に対し、多くの廷臣が戸惑います。仙洞御所と内裏とは離すのが伝統だったからです。

 

やがて信西の相婿であった藤原公教が中心となって後白河を追いおとす行動が始まります。

 

公教は平清盛に触手を伸ばします。清盛は源義朝に匹敵する、むしろ上回る軍事貴族ですが、後白河の側近で今回のクーデタの主要メンバーである藤原信頼とは相婿の関係で、信頼にくっついても不思議はありませんでした。しかし公教は清盛の中にあるだろう義朝への警戒心をうまく刺戟して清盛を後白河から引き剥がすことに成功します。

 

その上で公教は二条の引き剥がしに着手します。二条の側近であった藤原経宗藤原惟方をうまく引き摺り込むと、二条天皇を一気に六波羅に避難させ、その上で主犯の後白河にその事実を通告しました。

 

自らのクーデタが失敗に終わったことを知った後白河には三つの手段が残されています。このまま信頼・義朝とともに謀反人として処断を待つか、六波羅にいち早く亡命して二条天皇の情けにすがるか、どこかへ逃亡して被害者を装うか、です。後白河は三番目を選び、彼はあっさり仁和寺に逃亡しました。

 

気の毒なのは信頼と義朝です。いつのまにやら天皇上皇もいなくなり、謀反人として処断をまつばかりの状態だったのです。

 

これまでならばここまでの大惨敗を喫した場合は、もはや抵抗は諦めて情けにすがるしか手がありません。しかしここで破天荒な行動に出た人物がいます。言うまでもなく義朝です。彼はあろうことか、天皇の行宮である六波羅に突撃をかけたのです。天皇の権威が確立してから、というものの、天皇のいる場所に攻撃をしかけた人物はいないと思います。しかし義朝は突撃し、敗北するとそこで潔く自害、ではなく、処断をも待たず、東国に逃亡をはかります。天皇の御座所に攻撃をかける人物はその辺の目のつけ方も違います。東国で天皇とは異なる権威を打ち立てて自らの生存を測ろうというのです。しかし尾張国長田忠致に裏切られ、殺されてしまいました。

 

哀れをとどめたのは信頼です。信頼は事件の全ての責任を押し付けられ、「我は過たぬ」(私は間違っていない)と抗弁しますが、処刑役の清盛から「何でう」(なんと言うことを)と罵られ、正三位中納言という高位高官にも関わらず、裁判も受けることなく首を刎ねられるという理不尽な死に方をします。

 

これは公教による口封じということになるでしょう。確かに信頼に対する処断はあまりにも理不尽です。これならば保元の乱における源為義らの扱いの方がまし、と言わざるを得ません。

 

ちなみに私はこの著作を読んだ時に非常に説得性を感じて一旦はこの説に靡きましたが、今はもう少し考えてみよう、と判断を保留しています。