尼心阿和与状(『朽木家古文書』103 国立公文書館)
これは実は以前に取り上げた4号文書のその後です。
まず現物を貼り付けます。
釈文。
和与
佐々木四郎右衛門尉行綱女子尼心阿代浄円与同出羽五郎義信代光円相論、近江国高嶋
本庄案主職并後一条地頭職事
右、案主職・後一条地頭職者、心阿帯関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継等、
相傳知行處、建武四年正月廿日義信欲
致所務之条、無謂之由訴申之處、義信又備
関東安堵外題證文等、知行之由論之、既
雖及三問三答訴陳、為義信一族可有和与
由被申之間、以別儀、於後一条者、永代所避渡
于義信也。至案主職・同名田者、心阿永代可令
領掌者也、向後更不可有變改之儀、仍
和与之状如件
暦応貳年九月十一日 尼心阿
読み下し。
和与
佐々木四郎右衛門尉行綱の女子尼心阿代の浄円と同出羽五郎義信代の光円が相論す、近江国高嶋本庄案主職ならびに後一条地頭職の事
右、案主職・後一条地頭職は、心阿が関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継等を帯し、相傳知行のところ、建武四年正月廿日、義信所務を致さんと欲すの条、謂れなきの由訴え申すのところ、義信も又関東安堵外題證文等を備え、知行の由、これを論ず、既に三問三答訴陳に及ぶといえども、義信、一族として和与あるべきの由、これを申さるるの間、別儀を以って、後一条においては、永代義信に避り渡す也。案主職・同名田に至ては、心阿が永代領掌せしむべきもの也、向後更に變改の儀あるべからず、仍って和与の状件の如し
暦応貳年九月十一日 尼心阿
「和与」というのは現代の民事裁判における「和解」ということで、要するに争いごとを当事者間で決着させることです。
ここでは高島本庄の案主職と後一条の地頭職をめぐって、佐々木行綱の娘の尼心阿と、朽木義信が争ったものです。
心阿は関東下文と下知状、六波羅下知状、関係文書(次第手継)を手元において相伝し、知行していたところ、兼務四年に義信が荘園を横取りしようとしたので訴えたところ、義宣も関東安堵外題を持って知行してきた、と反論しました。
「論ず」というのは「論人」つまり被告のことなので、これは尼心阿が原告(訴人)、朽木義信が被告ということになります。
外題証文というのは、所領の配分を記した譲状の余白(外題・げだい)に幕府の執権らが安堵の文言を加えるもので、鎌倉時代後半には安堵の下文に変わって外題安堵という形になります。
「三問三答訴陳に及ぶ」というのは、まず原告が問い、被告が反論するという形(訴陳)を三回繰り返すということで、裁判を経るということです。
結局同族ということで後一条を義信、それ以外を心阿が相続する、という形で落ち着いています。
「備」という漢字が少し現在とは異なる「異体字」を使っています。「つくり」の上部が「久」みたいになっています。また「地頭職」などの「職」の「耳」が「身」となっていますが、これはわかりやすいと思います。