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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

薄命の明主、二条天皇

立命館大学の近所に二条天皇陵の香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)があります。

 

阪急から市バスに乗って立命に向かうと、衣笠校前で降りることになるわけですが、衣笠校前のバス停のすぐ近くの道をまっすぐ西に向かうとすぐに二条天皇陵に出ます。

 

www.kunaicho.go.jp

上のリンクは文字化けしていますが、「隆」の字を旧字にこだわって外字を使ったため、リンクが文字化けしたものと思われます。困ったものです。

 

あまり知る人もいないどちらかといえば影の薄い天皇ですが、彼が長命を保っていたら、歴史もかなり変わってしまっただろうと私は思っています。

 

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二条天皇 天子摂関御影

 

二条天皇後白河天皇の第一皇子で、諱は守仁、関白藤原師実の孫の懿子との間に生まれ、近衛天皇の健康不安の中で美福門院の猶子となり、やがて鳥羽法皇の後継者として位置づけられました。ただ父親がまだ天皇になっていなかったために、父親の雅仁親王がとりあえず即位し、すぐに守仁親王に譲位する、というプランが立てられました。

 

保元の乱で勝利した後白河天皇ですが、美福門院はプランの遵守を求め、一刻も早い後白河天皇の譲位を後白河側の代表者であった信西に要求します。信西ももともとは鳥羽法皇の側近であり、雅仁親王の乳母夫ではありましたが、守仁親王への譲位に同意します。したがって後白河天皇の譲位については「仏と仏」の間で行われた、と評されました。

 

かくして即位した二条天皇ですが、院政を敷こうとする後白河との間に齟齬が生じます。後白河との対立がいつから始まったのか、については、議論の分かれるところではありますが、平治の乱の主要因を二条天皇後白河上皇との対立に見る見方は割合多数派と思います。

 

二条天皇平治の乱では圧倒的な勝利を収め、後白河は信西藤原信頼という二人の側近を失い、その政治的存在感を急速に失います。

 

さらに二条天皇近衛天皇中宮であった太皇太后多子を入内させます。これについては『平家物語』では二条の独断とされています。二代の天皇と婚姻関係を結んだ女性は多子一人です。彼女は「思ひきや うき身ながらに めぐりきて おなじ雲井の月を見むとは」と、一旦退きながら再び入内した身の辛さを詠んでいます。

 

これについては美福門院や藤原経宗らの関与がないことは考えられないことから、後白河の牽制である、という説もあります。

 

もっともこの二つはそれほど矛盾しません。二条が多子を欲したのは、その女性としての魅力もさることながら、二条にとっては近衛と鳥羽の権威を身にまとっている、という自己主張によって自ら父の後白河に対抗しようとしたことは想像に難くありません。それが美福門院や経宗の後押しがあったかどうかは、実は史料からではわかりません。

 

ただこの婚姻の直後に経宗と藤原惟方という、二条の側近が、同じく二条の頼みとする平清盛によって拷問を加えられ、流罪になる、という事件が起こり、二条天皇のプレゼンスが減退し、後白河上皇のプレゼンスが上昇していることがうかがえますので、二条の独断であり、逆に二条の権威を傷つけた可能性も考えられますし、また二条の独断ではなく、二条派全体の計略だとすれば、彼らの目論見は完全に裏目に出た、としか言いようがありません。

 

そもそも多子の入内でメンツが丸つぶれになった人物がいます。鳥羽と美福門院の間に生まれた高松院姝子内親王です。彼女は近衛の同母の弟にあたります。彼女は後白河の同母の姉で後白河と親密だった上西門院統子内親王に養育されており、その意味では美福門院系と待賢門院系の架け橋的な存在でした。しかし美福門院系の二条天皇と待賢門院系の後白河上皇との関係が悪化する中で彼女の立場は微妙なものとなっていました。

 

姝子内親王は多子の再入内から内裏に入らず、出家を願うようになり、やがて重病に陥ります。

 

結局二条の多子再入内という決断は誰も幸せにはしませんでした。

 

二条天皇後白河院政を強引に停止し、二条親政を実現させますが、ほどなく重病に陥り、まだ幼い六条天皇に譲位して23歳の若さで崩御します。六条天皇外戚が極めて地位の低い下級官人でしたが、二条天皇藤原忠通の娘の育子を入内させ、摂関家伊勢平氏をバックにつけていましたが、摂政の近衛基実が急死したため、二条親政派は瓦解し、清盛が後白河と連携するにいたって二条の影響力は完全に失われました。

 

多子は二条の崩御を契機に出家し、近衛と二条の菩提を弔いながら62歳の人生を全うします。彼女は現在に至るまで最後の太皇太后です。

 

二条天皇が美福門院に代わる後ろ盾を摂関家に求めた結果、忠通の娘の育子を入内させたことは述べましたが、この時一つの問題が起こっています。太皇太后多子、皇太后呈子(近衛天皇中宮、二条側近の藤原伊通の娘で忠通の養女)、皇后忻子、中宮姝子となっていたため、育子の肩書きがないため、姝子を女院として育子を中宮としました。

 

高松院姝子内親王の晩年は信西の息子の澄憲と恋仲に陥り、海恵大僧都八条院高倉を生んでいます。彼女は八条院高倉を産んだ時に命を落とした、と考えられています。36歳でした。

 

二条天皇は非常に才気あふれる人物であった、と伝えられ、権威を欠如させた父親の後白河とは違い、鳥羽法皇の権威を受け継ぐ「正統の天皇」となる資格は十分にあった英邁な君主であった、と思われますが、如何せん長寿を全うできず、本人も無念だったに違いありません。あと高松院姝子内親王太皇太后多子の人生を結果として弄んだことになってしまいました。