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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

平清盛と源義朝

平治の乱の原因の一つとして挙げられているのが、源義朝平清盛に対する敵愾心です。源平合戦の前哨戦というような見方すらなされています。

 

本当でしょうか?

 

そもそも源義朝平清盛を恨む動機が考えられません。もちろん人間ですから、何を考えても不思議ではありませんが、義朝が清盛を敵視するのはお門違いもいいところです。

 

源義朝平清盛に比べて恩賞が薄いことに不満を持った、とされています。本当でしょうか。とすればそこで清盛を排除する方向に向かうのはそれこそ相手を間違えています。

 

清盛と義朝の差は位階でいえば四位と五位と聞けば一つ違いに見えますが、厳密に言いますと、正四位下の清盛と従五位下の義朝ではものすごく差があります。「正四位下従四位上従四位下正五位上正五位下従五位上従五位下」です。間に6段階あります。さすがにこれは近いとはいえないレベルです。

 

もっとも保元の乱の翌年には従五位上正五位下と二段階昇叙していますから、義朝は一挙に出世の階梯を歩み始めたことがわかります。

 

平治の乱で一気に四位(従四位下?)に登り、播磨守に任ぜられます。

 

清盛の立場を見てみましょう。

 

清盛は自分の留守中に信西排除のクーデタを起こされています。清盛は信西と信頼の双方と姻戚関係を結んでいますので、信西排除を目指す場合にどのように行動するのかわからない、という状態です。信西打倒のクーデタに清盛が抵抗すれば失敗するかもしれません。そこで信頼・義朝は清盛が熊野詣でに出かけていて六波羅が身動きが取れない状態でクーデタを決行したものと思われます。ここで義朝が清盛を打倒することを考えていたのであれば、六波羅も攻撃されなければおかしいでしょう。実際には六波羅に逃げてきた信西の遺族を捕縛して信頼に送り届けています。何のことはありません。伊勢平氏は信頼の味方についたのです。

 

ただ清盛としてはそのクーデタが誰をターゲットにしたのかわからない以上、極めて不安を覚えたでしょう。西国に一旦逃亡するという案が出たのも頷けます。

 

しかしリサーチの結果、清盛がターゲットではないことがわかったので清盛は帰京したのでしょう。源義平が清盛を滅ぼそうとして兵をだすことを献策した、というのはフィクションである、と私は考えます。少なくとも信頼・義朝陣営が積極的に清盛を敵視する理由はありませんし、実際その後の動きを見ても信頼・義朝陣営は清盛を敵視していないどころか、味方と思い込んでいる節があります。

 

一方清盛の心中を考えるとどうでしょうか。清盛の留守中にクーデタがおきたことで清盛のメンツはつぶされています。要するに信用されていない、と考えたとしても不思議はありません。

 

さらに清盛にとっては義朝の急激な地位の上昇は望ましいものではありません。藤原公教の切り崩しはそこを的確についたものでした。清盛が信頼・義朝を見限り、公教サイドについたことで彼らの命運は決したも同然です。

 

ここで勝敗は決したのであり、あとは信頼・義朝に対する処断を待つだけだったのですが、ここで義朝はおそらく多くの人々が想定していなかった暴挙に及びます。懸けまくも畏き一天万乗の君であるところの二条天皇の御座所に突撃を開始したのです。さらにそれに敗れると東国に落ち延びて再起を図ろうとします。結果的に義朝は尾張国で殺害され、義朝の東国自立政策は頓挫します。もし彼が東国に落ち延びることに成功していたらどうなったでしょうか。何ともわかりませんが、いろいろな可能性が出てくるでしょう。まあ実際には誰かにやられて鎮圧されたとは思いますが。