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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

以仁王ー歴史の闇に消えた先駆者

以仁王という名前を聞いた人は結構多いでしょう。多分中学校の歴史では習うと思います。源平合戦と一般には言われる治承・寿永の内乱の先駆者となった人です。

 

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以仁王 東京国立博物館

 

以仁王後白河天皇の第三皇子です。ちなみに第一皇子はもちろん二条天皇、第二皇子は守覚法親王で、以仁王守覚法親王の同母弟です。同母兄弟には守覚法親王の他には殷富門院、式子内親王などがいます。

 

母親は待賢門院の姪にあたる藤原成子で、幼少時より最雲法親王堀河天皇皇子)の弟子になっていましたが、最雲法親王の死去により還俗していました。基本的にはこの段階で皇位継承権は失われた、と思われますが、実際には還俗した人物の皇位継承権は喪失する、という明文化されたルールは存在しないので、何が何でも、というものでもなかったのでしょう。

 

実際彼はやがて八条院暲子内親王の猶子となりました。これは彼の人生に大きく翳を落とすことになります。

 

八条院は美福門院所生の内親王で、鳥羽院の遺領のほとんどを継承していました。近衛天皇死後は鳥羽院の後継者は二条天皇となっていましたが、一一六五年に死去していました。同じ年に以仁王八条院の猶子になったことは、以仁王が美福門院系の皇位継承者として擁立されたことを意味します。

 


皇位継承の中世史: 血統をめぐる政治と内乱 (歴史文化ライブラリー)

 

 しかし彼の皇位継承者としての擁立はかなり微妙なものでありました。当時皇位についていたのは六条天皇です。

 

二条天皇には多子や姝子内親王など身分の高い女性との間には皇子が生まれず、第一皇子は右馬助源光成の娘との間に生まれ、第二皇子の六条天皇は大蔵大輔壱岐致遠の娘との間に生まれた、という外戚のしっかりしない状態でした。六条天皇の准母として忠通の娘の育子が付き、忠通の嫡子の藤原基実が摂政に、その後ろ盾となっている伊勢平氏平清盛が従二位権中納言として控えていました。しかし頼みの綱の基実の休止で進退窮まった二条派の清盛は節を曲げて後白河に接近する以外の方途がなくなり、六条天皇の運命は窮まりました。

 

もっとも六条天皇は受禅した時はまだ満年齢では7ヶ月の乳児で、譲位した時は3歳5ヶ月の幼児でした。つまり年少組に入るか入らないか、の年で譲位しているので、自分では何が何だかわからなかったのではないでしょうか。

 

ともあれ、後白河上皇の悲願であった憲仁親王の即位が実現しました。というのも、後白河は以前にも憲仁親王皇位継承を企んで二条天皇に叩き潰されたことがあったのです。

 

憲仁親王は建春門院平滋子の所生です。建春門院は清盛の正室平時子の妹なので、清盛とも繋がりがあります。藤原経宗に拷問を加えてくれた清盛の甥を天皇につける、といえば清盛が喜んで協力してくれる、と考えた後白河の甘い考えは氷にように冷たい現実の前に吹き飛びました。清盛はこの陰謀に関わった平氏一門を処分し、二条天皇への忠誠を誓います。

 

しかし二条と基実の相次ぐ死去で情勢は後白河有利になりました。後白河の軍門に清盛が降ることで二条派は瓦解します。その二条派のもとにひっそりと入り込んだ以仁王に対する建春門院の警戒心は強く、伯父の藤原公光が失脚するという事件も起こりました。

 

建春門院が以仁王を露骨に警戒したことについては、伊勢平氏がそのバックにあるような記述を多く目にしますが、そもそも伊勢平氏がおしなべて建春門院と利害を一致させていたわけではないことは、清盛の動きから見ても明らかです。この段階での以仁王の不遇の原因は建春門院にあるでしょうが、その背後には伊勢平氏ではなく、堂上平氏および後白河の意向を見る必要があると考えます。

 

建春門院・後白河と清盛の連携が完成した時、六条天皇の運命だけでなく、以仁王の運命も閉ざされてしまいました。二条派のレッテルが貼り付いてしまい、憲仁親王のスペアにもなれなくなってしまったのです。

 

やがて憲仁親王が受禅して高倉天皇となり、後白河院政が開始されると以仁王の居場所はなくなり、彼は三条高倉の屋敷でひっそりと暮らすことになります。

 

清盛と後白河の利害に基づく連携は、その紐帯となってきた建春門院の死去によって一気に崩壊に向かいます。鹿ケ谷事件の真相は今尚はっきりしませんが、少なくとも後白河と清盛の間が平穏ではないことは伺えます。後白河の院近臣の藤原成親が密かに殺され、そのことで清盛の長男で後白河の側近であった平重盛は板挟みに苦しみ、やがて死去します。その遺領の処分や、清盛の娘で基実の正室であった盛子の遺領は基実の子の基通に引き継がれず、基実の弟の藤原基房に引き継がれました。このような執拗な後白河の挑発に清盛のフラストレーションが爆発して治承三年の政変が引き起こされます。

 

清盛は後白河の院政を停止し、高倉天皇を皇太子の言仁親王に譲位(安徳天皇)させ、院政を敷かせます。高倉上皇を治天とする高倉院政の始まりです。

 

この一連の清盛による朝廷再建策の中で以仁王保有していた城興寺領が没収され、以仁王平氏を恨むようになります。

 

もっともこれは逆恨み、というべきで、城興寺領は本来梨本門跡に付せられたものです。以仁王は梨本門跡に入るはずだったので城興寺領を獲得しましたが、還俗したため、本来はその段階で返却されるべきだったのです。しかしなし崩し的に領有が認められてきただけだったのです。清盛は「あるべき姿にもどす」という、政策を実行したにすぎません。城興寺領は本来の所有者である梨本門跡に返還されました。

 

しかし食い物の恨みは忘れない、といいますが、収入をいきなり切られた恨みも簡単には消えませんし、これは納得しようとしても納得しきれるものではありません。以仁王の心中には暗い復讐の炎が燃えさかっていたに違いありません。

 

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