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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

以仁王の令旨は源氏の蜂起に繋がらなかった!

以仁王の令旨が全国にばらまかれ、それに対応した源氏が諸国で蜂起し、ついに平氏を滅ぼすに至った!

 

それは本当でしょうか?

 

どうも近年の研究では必ずしもそうは言えない、ということのようです。

 

源頼朝のケースです。頼朝のもとに令旨をもたらしたのは頼朝の叔父の源行家でした。このとき頼朝は斎戒沐浴して義父の北条時政とともに令旨を見た、とされています。そして令旨の到来を受けて挙兵を決意した、と『吾妻鏡』には記されています。

 

しかしそこから二ヶ月、頼朝は動きません。五月には頼政家臣で頼朝の支援者の寒河尼につながる下河辺行平からクーデタ計画の情報がもたらされたにも関わらず、です。

 

頼朝が動き出すのは三善康信からの知らせを受けてからです。細川重男氏は二ヶ月は長すぎだろう、と言っています。そう思います。頼朝は挙兵の準備に取り掛かったのではなく、迷ったのでもなく、なかったことにしたのでしょう。

 

それはそうでしょう。頼朝は別に困窮していません。妻の北条政子と結婚し、北条氏の婿に迎えられ、長女もできて幸せいっぱいの時期です。頼朝にとってようやく落ち着ける場所ができたのです。頼朝にとって平氏を倒す、というディールはあまりにも割に合いません。

 


頼朝の武士団 ~将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉 (歴史新書y)

 

 頼朝が挙兵を意識して動き出すのは、三善康信から「以仁王の令旨を受け取った先の追討が命じられた。奥州藤原氏のもとに逃亡しなさい」という勧告が来たからです。細川氏はこの勧告が頼朝の挙兵を決意させた、と考えています。頼朝にとって、自分と妻子と北条氏が生き延びる道は挙兵して平氏から東国を守るしかありません。

 

40人ほどの弱小武士団が挙兵したところであっという間につぶされるのは目に見えています。頼朝の乳兄弟である山内須藤経俊は元に頼朝の挙兵の計画を知らされて「人間、貧窮の至りになればわけのわからないことを思いつくものだ」と罵倒され、断られています。

 

それでも三浦義澄、千葉胤頼がどうやら味方になってくれそうで、頼朝は伊豆の目代山木兼隆を襲撃の第一ターゲットに選びます。これは成功し、頼朝は挙兵しますが、頼朝謀反に備えて東国に帰着した大庭景親の軍勢に叩き潰され、九死に一生を得てから、奇跡の復活までは省略します。

 

さて、頼朝は東国を制圧しましたが、まず頼朝の成功の要因です。これは伊豆国の場合、それまで知行国主であった源頼政が敗死して知行国主が交代します。平時忠知行国主になり、在庁官人にも大きな変動が起こり、その不安に頼朝の挙兵がすっぽりはまり込んだ、という側面はあります。

 

また頼朝は早くから以仁王の令旨を錦の御旗とせず、治承三年の政変で幽閉された後白河院を助けよう、と錦の御旗を後白河に設定していました。

 

一方、そこで下手打ったのが木曾義仲です。義仲はあくまでも以仁王にこだわり、皇位継承にも以仁王の王子の北陸宮(ほくろくのみや)を推し、後白河の不興を買います。後白河はあくまでも高倉院の遺児からの皇位継承にこだわっていました。

 

その後の動きは省略します。

 

皮肉なことに北陸宮は後鳥羽即位後に入京し、後白河の庇護下に入りますが、義仲による後白河幽閉計画の直前に逐電し、行方不明となります。二年後、頼朝の庇護下で帰京していますから、頼朝を頼って逐電したのでしょう。

 

その後は頼朝の援助を受けながら75歳の長寿を全うします。

 

以仁王の子息は他に二人いましたが、次男の真性は以仁王の挙兵の時にはすでに出家していたので特に問題視されず、後に天台座主となり、城興寺領を引き継いでいます。以仁王の運命を狂わせた城興寺領は以仁王の次男に引き継がれたのです。彼は後鳥羽・土御門・順徳の護持僧を勤め、73歳の長寿を全うしました。

 

三男は以仁王挙兵時には5歳だったので処刑されるリスクもありましたが、助命され、仁和寺で出家し、東寺長者や仁和寺長者という真言宗のトップに上り詰め、東大寺別当も務めた顕密に通じた高僧となり、土御門・順徳・後堀河の護持僧を務めました。53歳で兄二人に先立って1228年に入寂しています。

 

以仁王の子孫は残りませんでしたが、王子たちはいずれも穏やかな晩年を送ったようです。