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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

悲劇の美女常盤御前の虚実

源義経の母の常盤御前といえば絶世の美女で、東国の武家の棟梁源義朝という男の中の男と結婚し、子ども3人を生むも、平治の乱で平家に追われ、子どもと母の命を救うために清盛の側室になって、その後懲罰的に一条長成という下級貴族と結婚し、義経が頼朝に追われたあとは頼朝の追及を受ける気の毒な人、というイメージです。

 

今回は常盤御前について調べてみました。源義朝との出会いのきっかけは?家族は?再婚相手は?

 

まずは出会いのきっかけです。

 

彼女は九条院呈子の雑仕女です。雑仕女は宮中などに仕える身分の低い女性で、彼女自身も父母については不明です。彼女らの中には貴族の側室になるケースがありました。

 

彼女自身河内源氏の棟梁で東国に長くいましたが、1147年に東国を長男の源義平に任せ、自らは都に戻ってきて藤原南家の貴族で熱田大宮司藤原季範の娘と婚姻し、源頼朝をもうけています。

 

1153年には常盤御前との間の今若丸が生まれているので、このころ義朝と常盤御前は婚姻したことになります。

 

1155年には乙若丸が、1159年には牛若丸が生まれています。

 

ここで一つ、押さえておかなければならないポイントがあります。

 

それは九条院呈子の雑仕女と婚姻することの意味です。

 

九条院呈子は近衛天皇中宮です。藤原忠通の養子として入内しました。当時、忠通は美福門院と組んで藤原摂関家を代表する藤原忠実・頼長父子と対立する関係にありました。呈子の入内は、頼長の養子である多子への対抗馬です。この呈子の入内によって忠通と父の忠実の関係は破綻しているわけであり、この雑仕女と婚姻する、ということは、美福門院に肩入れすることを示しています。これは同時に摂関家に仕えていた父源為義との訣別を意味します。

 

その甲斐あってか、義朝は今若生誕の年には念願の受領になっています。父為義が願いながらついに到達しなかった受領の地位に義朝は30歳で到達しました。と同時に彼は従五位下に叙爵されます。貴族の仲間入りです。

 

その後の義朝の栄達ぶりは知られた通りです。近衛天皇崩御に端を発した政変の中で、あやまたずに鳥羽院や美福門院の信頼を勝ち得て、鳥羽院崩御から始まった保元の乱では圧倒的な働きで後白河派を勝利に導きました。

 

彼らの運命が暗転するのは平治の乱です。後白河院の側近であった藤原信頼信西の争いで信頼は二条天皇派の藤原経宗と組んで信西を排斥します。しかし信頼・義朝は中間派であった平清盛を味方に引き入れることに失敗します。これは信西派であった藤原公教の切り崩しに屈したからです。

 

義朝は暴発し、東国に去ろうとして途中で討ち取られます。

 

その中、常盤御前は雪の中、3人の息子を守ろうと逃亡する、という逃亡談があります。幼児の今若と乙若を連れ、乳児の牛若を抱きかかえて雪の中を逃げ惑う常盤御前の姿は涙を誘います。

 

しかしそれが事実であったかどうかに関しては確証はありません。

 

また彼女が潜伏先の大和国で、母親が囚われたことを知り、母を助けるために九条院に出頭したのちに清盛のもとに赴いて子どもたちの助命を嘆願するシーンも著名なシーンですが、これも確証はとれません。まして清盛の側室となった、というシーンも軍記物と『尊卑分脈』にのみ見える話で、当時の記録からは伺えません。したがって虚偽として退けることもできませんが、事実と考えることにも慎重であるべきでしょう。

 

平治の乱で一旦消息の途絶えた常盤ですが、再び彼女の動静が明らかになるのは一条長成に再嫁してからです。

 

一条長成藤原北家道隆流の貴族で、美福門院の御所に昇殿を許されたことが史料上の所見であることから、美福門院系の貴族であったことがうかがえます。加賀守・但馬守と累進し、現在確認できる最終官位は正四位下大蔵卿です。公卿まであと一歩のところまで昇進しています。

 

長く子どもがいませんでしたが、常盤との間に待望の能成をもうけています。

 

能成の生誕とともに今若が醍醐寺に入室しています。そして乙若が園城寺に入室し、牛若は鞍馬寺に入室することになります。

 

今若は異母兄の源希義と一歳しか違わないのに、土佐国流罪になった希義に対して醍醐寺に入室するという、ある意味好待遇を受けられたのは、彼が長成の養子として扱われたからではないか、という見解があります。乙若・牛若も長成の子として扱われ、寺に入室することになった、と見るのは説得性があると私も考えます。

 

長成には意外な血縁関係があります。

 

長成の母は白河・鳥羽両院の近臣で、藤原道長の曾孫の権中納言藤原長忠の娘でした。彼女の姉妹は藤原北家隆家流の藤原基隆に嫁ぎ、忠隆を産んでいます。忠隆の子どもが平治の乱の首魁藤原信頼です。一方信頼の兄の藤原基成は娘を奥州藤原氏藤原秀衡に嫁がせ、藤原泰衡が生まれています。

 

鞍馬寺に入ったものの、出家を拒否して出奔した牛若の身の上を案じた常盤が、長成のツテを頼って秀衡のもとに牛若を送り込もうとした可能性が指摘されています。

 

いかがでしたか。

 

今回のネタ本は前川佳代氏の『源義経と壇ノ浦』です。

 


源義経と壇ノ浦 (人をあるく)

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。