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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

源義経の秘密、気になるあの人との関係は?

源義経といえば今でも人気の高いヒーローです。

 

義経の相方として鉄道オタクならもちろん弁慶ですね。7100型蒸気機関車の名前で今日まで残っているのが「弁慶号」「義経号」「しづか号」でいずれも義経がらみです。ちなみに他には「信広号」(松前藩始祖武田信広に由来)とか、「比羅夫」(阿倍野比羅夫)とか、「光圀」(なんでやねん)とかがありました。「光圀」は意味不明です。どうせなら「武四郎」とすべきでしょうが、明治時代にそれは無理でしょう。

 

弁慶といえば寡頭袈裟姿で薙刀を持つ、という典型的な「僧兵」スタイルで、義経とは五条大橋で出会い、義経の刀を奪おうとするも敗れ、義経の部下になる、という話で有名です。義経に従い、最後は立ち往生という壮絶な最期を遂げることで、義経の悲しくも華やかな生涯を彩る名脇役、場合によっては主役となる人物です。

 

しかし実際にいたのでしょうか。

 

吾妻鏡』に「武蔵坊弁慶」という名前が出てきます。弁慶は実在したようです。文治元年十一月三日と六日条に出現します。逃亡する義経の従者として一番最後に記載されています。

 

現場からは以上です。

 

要するに「武蔵坊弁慶」はいたことはわかりますが、実像は全くわからない、ということになりそうです。

 

我々が想起する弁慶像は、義経を支援した比叡山の大衆(だいしゅ)・悪僧、現在我々がしばしば「僧兵」と呼んでいる人々のイメージが弁慶に投影されたもの、と考えられそうです。

 

次に気になるのがジンギスカンとの関係です。義経がモンゴルに渡ってチンギス・ハンになった、という伝説はどのようにして広まっていくのでしょうか。

 

室町時代の『御伽草子』に義経が北海道に渡る、という伝説が紹介されています。ただ今日我々が考える義経と北海道とはかなり異なります。東北にいたころ、修行のために北海道に渡り、その後頼朝の下に駆けつけ、大活躍する、という話になっています。時代背景としては、そのころ日本海交易が発展し、京都に多くの北海道産の物資が流入していたことと関係があるでしょう。

 

この関係で着目されるのが、津軽安藤氏が室町殿と関わりを持っていたことです。

 

江戸時代になると判官贔屓から、義経が衣川で死なずに北海道に逃れた、という話に展開していきます。1670年の『続本朝通鑑』に義経が死なずに蝦夷ヶ島に到ったという記述が見られます。1700年には「シャムシャヰン」が源義経の末裔、という話が「本朝武家評林」に載せられ、1700年代初頭には義経シャクシャインである、という見解が見られるようになります。

 

この背景には、当時の日本と蝦夷地の交易の拡大があります。

 

18世紀中頃になりますと義経が金の将軍になった、とか、清の皇帝の先祖になった、という荒唐無稽な物語が広まります。

 

しかし義経の伝説はやはりチンギス・カンになったことが最大のクライマックスでしょう。なんせ世界を圧倒したモンゴル帝国が日本人だった、というのですから。

 

シーボルト義経チンギス説を論証しようとしています。

 

その白眉が小矢部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』です。これは参謀本部も支持して大々的に広まります。当時「満蒙は帝国の生命線」と言われており、政治的な側面が強くありました。

 

当時の歴史学研究者は一斉に反発します。『中央史談』で錚々たる研究者が「成吉思汗は義経にあらず」という特集記事で小矢部を散々に批判します。

 

しかし小矢部は動じません。「日本史の研究には大いなる愛国心を要す」研究者は「国家の名誉も不名誉も眼中に置かぬ」として非難します。

 

義経成吉思汗説は戦前にはすでにお話にならないレベルで、現在ではエンタテインメントとしては成立しても、もはやトンデモでも成立しないレベルである、といえましょう。

 

いかがでしたか?

 

伝説が成立してくる過程はかなり興味深いものでしたね。

 

それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

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