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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

モンゴル戦争、又の名を「蒙古襲来」「元寇」

8月1日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座です。8月はいわゆるモンゴル戦争を取り上げます。モンゴル戦争というのは聞きなれない名前ですが、蒙古襲来とか元寇とか言われるものです。

 

元寇という言葉は最近学会では見かけませんね。どうしたのでしょうか。ポリコレ棒でタコ殴りにされたのでは、と心配になります。

 

それについて私の頭の中のデータを拾い出してみたところ、「元寇」という言い方がそもそも語義的に間違っているから、という見方が出てきました。

 

どういうことでしょうか。

 

そもそも「元寇」に含まれる「寇」というのは「盗人」とか、そういう意味の言葉です。従って国家に「寇」という言葉を使うのはおかしいのです。あくまでも「倭寇」であった「日本寇」ではありません。「倭」と「日本」とは明らかに異なる概念です。

 

こういうことを言うと「日本と異なる倭があったわけではない」という意見が出てきますが、私に言わせるとそれは現代の我々の国家観をそのまま中世にスライドさせた議論です。史料を読む時の姿勢に問題がある、としか言いようがありません。当時の朝鮮王朝の考え方を把握すべきです。そのためには彼らがどういう場合に「倭」とか「日本」とかいう言葉を使っているかを慎重に見極めなければなりません。そこをざっくり読むと「中世日本とは異なる倭はなかった」という意見になるのです。

 

『高麗史』を慎重に読めば、彼らは明らかに室町幕府を「日本」と呼び、室町幕府とは異なる勢力を「倭」と呼んでいることがわかります。

 

この辺はかつて下記の論文で論じましたので、関心のある方はご覧ください。(PDF注意)

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

 

つまり「元」という王朝が「寇」を働いていた、というのは語義的におかしいのです。「寇」というのは単なる侵略行為を表すのではありません。

 

ただそれならば「応永の外寇」はどうなるのか、という疑問が出てきます。というか、私もその疑問は持ちます。日本語では「寇」と言う言葉は単に「外敵による侵略」という意味に転化しているので、それを考えれば「元寇」という言い方もあながち的外れとはいえない、という気もしてきました。

 

ともあれ近年「元寇」という言葉をみないな、と思われたならば、そういう事情が働いていたのですね。いや、びっくりですね。私ももちろん・・・知ってました。

 

で、モンゴル戦争、いわゆる文永の役弘安の役のことですが、発端が、クビライ・カアンによる高圧的な国書に求められることが多かったと思います。

 

しかしこれは本当に高圧的な国書なのでしょうか。

 

調べてみました。

 

現在の我々からすれば高圧的で好戦的な国書です。このような言葉で威圧をかけてくる国とは仲良くできそうにもありません。

 

しかしこれは現代の我々の認識です。言うまでもなく中世の人間は同じように考えたかどうかは不明です。

 

これが本当に不明ならば、現代人と同じ発想をするはずだ、と想定するのはまだ止むを得ないと言えるかもしれません。しかしはっきり史料を解釈すれば現代人とは異なる解釈が出るものにも現代人の考え方を当てはめるのは、超歴史的である、という非難を免れることはないでしょう。

 

クビライは本当に好戦的で高圧的な侵略の意図をちらつかせるために国書を書いたのでしょうか。

 

私はその意見に与しません。

 

クビライの国書が侵略を意図したものである、という見方は、現代の我々の見方を無前提に導入して国書を解釈するからです。これは歴史学研究においては慎重に扱うべき問題と考えます。

 

結論だけを言いますと、クビライの国書は当時の大モンゴルウルスの大カアンのジャルリク(命令書)のテンプレートに忠実に沿ったものでしかなく、この国書自体に武力行使の意図を読み取るべきではありません。さらにいえばクビライのジャルリクにしては破格の敬意を払った文言です。

 

この点について詳しく知りたい方はこちらの論文で詳しく論じましたのでご覧ください。(PDF注意)

 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hatano.pdf

 

しかしこういう意見も当然出てきます。「クビライがいかに敬意を払ったとしても日本側が武力行使と受け取ったのでは意味がないのではないか」

 

私もその意見に賛成です。いくら大モンゴルウルスサイドが「いや、あれはあれで一生懸命気を使っているんだよ。それをわかってくれよ。あくまでテンプレなんだ」と言われても「そんなん知らんがな」で終わりです。相手に意図が伝わらない文書を出す側に問題があります。

 

しかし当時の日本はクビライの意図を正しく受け取り続けていた、と私は考えています。その上で「それでも日本は戦争を選んだ」のです。厳密にいえば「鎌倉幕府は戦争を選んだ」のです。

 

次回、この辺をもう少し詳しく見ていきます。

 

いかがでしたか?

 

元寇」さんや「蒙古襲来」さんは近年は「モンゴル戦争」という名前に変わっていることがわかりました。

 

またモンゴル戦争と名前を変えていますが、「元寇」と呼ばれる事件の発端となったクビライさんの手紙があまりにもウエメセ(タカビーとも言う)だったから、という見方が多いですが、必ずしもそうではない、という見方もあることもわかりました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。