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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

神風は吹いたのか

ただいま色々忙しいため、ブログの更新は途切れがちです。

 

今回は8月15日(木)のオンライン日本史講座のお知らせを兼ねて神風が吹いたのか、という問題を考えることにしました。

 

「神風」ですが、この由来は文永の役弘安の役の二度のモンゴルの襲来に際して二度とも風によって救われた、という見方です。日本は天皇を中心とする神の国、という概念を作り上げるのに大きく寄与した歴史事件です。

 

ところがこれが不思議なことに文永の役の時に風が吹いたかどうか、定かではありません。日本側の史料にはほとんど風のことが言及されていません。モンゴルおよび高麗の史料には言及されています。これから考えれば、文永の役の時に風が吹いたのは撤退中のことであると考えられます。

 

弘安の役では風が吹き、モンゴル軍に大きな損害を与え、それが原因となって撤退に至ったことは間違いがないところと思われています。

 

それでは文永の役の撤退原因は何だったのでしょうか。

 

これについてはまず言われていたのが、モンゴル軍は1回目には内情を探るために軽いジャブを放つ、という説明がありました。しかし近年ではその見方は否定されています。

 

まず日本側の事情ですが、一口に言えば日本側はかなり善戦しています。とりあえず少弐景資劉復亨を射落とした、と言われています。『八幡愚童訓』には景資が「流将公」を射たとされており、『高麗史』には劉復亨が流れ矢に当たった、とあります。

 

この両者のプロフィールです。

 

まずは少弐景資です。

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少弐景資竹崎季長絵詞』

白粉に口紅をさし、お歯黒をつけています。派手な大鎧と相まって五月人形のようです。しかしバカにしてはいけません。彼の持っている弓矢はかなり強力な武器です。私の記憶ではモンゴルの弓は小さく速射がきいて矢も強く、毒も塗ってあって、逆に日本の弓は大きく弱い、というようなことが書かれていましたが、弓矢は当時最強の武器です。

 

文永の役では「日の大将」を務めていました。肥後・肥前守護代でした。肥前肥後守護は兄の経資です。やすやすと赤坂への上陸を目の前にしながら息の浜から動かなかった判断をミスとする見解もあります。一方で日本側は騎射を基本とする戦法のため、馬が動きにくい赤坂での迎撃を見送り、足場の良い息の浜で迎撃する予定であったとも考えられています。

景資が指揮したのはあくまでも肥後・肥前御家人でしょうから、実際の総指揮は経資がとっていたのでしょう。ただ有名な『竹崎季長絵詞』の著者の竹崎季長が肥後の御家人だったので、景資が目立つのは事実です。

 

服部英雄氏によればモンゴル軍の狙いは赤坂の現在の福岡城にあたる警固山のようです。

 


蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 (中公新書)

 

 博多に関する土地勘がないので、絵がないとピンとこないのですが、モンゴル軍は麁原に上陸したようです。この辺は実際に地図を出して説明しようと思います。

 

麁原に上陸したモンゴル軍はまずは一番の橋頭堡になりそうな警固山を狙います。10月20日のことです。麁原から鳥飼に向かって警固山を目指すモンゴル軍に対し、菊池武房勢が攻撃を仕掛け、勝利を収めます。

 

モンゴル軍は麁原に退いて体制の立て直しを図りますが、肥前・肥後勢が鳥海潟まで追撃してきたため、モンゴル軍も鳥飼潟に向かい、交戦しますが、この戦いで劉復亨が負傷し、モンゴル軍は麁原山に退却します。

 

それを追撃する形で百道原・姪浜

 

ここでわずか1日で戦闘が終わった、と考えられてきたのですが、服部氏はここから1日で退却するのは難しく、『関東評定伝』に24日に太宰府でモンゴル軍との戦闘があり、日本側が勝利を納めたことが書かれています。

 

これでモンゴル軍は諦めた、と考えられています。

 

劉復亨です。

 

ウィキペディアに依拠します。

ja.wikipedia.org

漢人ですから金の遺民の子孫です。耶律楚材の門人でした。四大軍閥の厳平の配下の武将として台頭し、アリクブケへの対抗策としてクビライが組織した親衛隊に組み込まれ、アリクブケ打倒後には武衛軍副都指揮使となり、左翼侍衛親軍副都指揮使・昭勇大将軍・鳳州等処経略使を経て運命の征東左副都元帥となります。

 

この経歴を見る限り彼も有能な将です。もし劉が景資にやられていたとしたら、「あんな飾り付けられたヤツに射られたOTL」という気分だったのではないでしょうか。

 

いかがでしたか?

 

日本側はかなりショボい、と思われていた文永の役でしたが、実際にはかなりの激戦だったことは事実であり、また実際には日本側はかなり善戦していることがわかります。ではなぜ日本軍はあんなに弱かったように描かれたのでしょうか。それには様々な事情が複雑に絡み合って「日本の武士弱い」というイメージになってしまったのです。それについて次は述べたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。