日本の武士はなんであんなに「間抜け」なのか
こんな話を聞いたことはありませんか。
元寇の時、日本の武士はモンゴル軍の前に進み出て「やあやあ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは」
モンゴル軍、ドッと笑う。と、いきなり一斉に取り囲んで殺してしまう。
日本の武士って間抜けすぎ、としか言いようがありません。
というか、これ、本当なのでしょうか。
考えてみれば蒙古襲来の時の日本の武士って間抜けに描かれているような気がします。集団戦法と個人戦のネタもそうですが、そもそも武士が戦っても埒があかず、結局二度とも「神風」という自然現象に助けられた、ということになっています。
しかし近年の研究ではそれを覆す成果が出されています。文永の役では武士が戦ったゆえにモンゴル軍は撤退した、というのは今や多数説となったとみていいでしょう。ポイントは一日か、もっと長期化したか、という点です。
弘安の役でも台風にやられるまでに日本側がかなり奮戦していることは明らかにされています。台風による被害の大きさとその後の「掃討戦」が敗走するモンゴル軍を追いかけるのか、台風で被害を受けながらも戦闘で相手を負かしたのか、という点が議論にはなりますが、武士が何もできなかったわけではありません。
では日本の武士は無能で神風のおかげで勝った、という考え方はどこから出てきたのでしょうか。
これは『八幡愚童訓』です。
ではなぜ『八幡愚童訓』はそんなデマといってもいいような、日本の武士に対する侮辱的な記述を行なっていたのでしょうか。
これには当時の戦の構造を知る必要があります。構造、と言っても現実の戦の構造ではありません。当時の人々の頭の中で描かれた戦の構造です。
当時の日本では地上で人々が戦っている時、天上で神々も戦っているのです。神々も戦争で傷を負ったりします。相手を打ち果たしたりもします。それが地上の戦にも大きく影響を与えるのです。神の加護の下、人々は戦っていたのです。
したがって祈祷は非常に重要でした。戦に勝ったのは神のおかげです。もちろん戦った武士の功績もありますが、同程度に神仏も戦った功績があるのです。
もちろん神社はそのお礼を要求します。
したがって彼らにとっては武士は間抜けで役立たずの方がいいのです。日本を守ったのはへっぽこ武士ではなく神々である、という方が都合がいいのです。だからことさらに武士は間抜けでカスっぽく描かれ、それが近代の神国思想の中で強化され、日本は神が守っているので「最後に愛は勝つ」ではありませんが、最後は勝つのです。
この「神風」という現実から目を背けさせ、神社の利益のみを追求した観念が、後世にいかなる悪影響を及ぼしたかはここでは略します。
目の前の現実を受け入れられず、目を背けて神々の世界に閉じこもって破滅した戦前の日本の誤った歴史観を、なぜか戦後も引き継ぎました。「神風」を自然現象と読み替えればあっという間に「神風」批判に変わり得ます。
日本が勝ったのは単なる僥倖にすぎない、それを戦前の軍国主義者は「神風」と読み替えて国を誤ったのだ、と。
結果として日本にとっての蒙古襲来というのはどこまでも矮小化されます。
蒙古襲来研究の課題は戦前と戦後を通じて流れてきた「神風」史観だったと言えるでしょう。この二十年ほど、もう少し長いかもしれませんが、蒙古襲来研究史は「神風」史観をどう克服するか、ということだった、と私は考えています。海域アジア史の中に位置付ける研究、得宗政権の動向を探る研究、悪党、徳政令や仏神領興行法などの社会史の研究など、さまざまな積み重ねがあり、現在の研究につながっています。
そういうことを再確認した今回の講座だったと思います。