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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

嘉吉の乱リバイバル

オンライン日本史講座最初期のリバイバルです。

 

最初期の分のオンライン日本史講座は一部ユーチューブにアップされていない、ということで、リバイバルをしますが、中でも第三回の嘉吉の乱については赤松満祐を悪者にしたことについて兵庫県関係者には不評だったようです。そこで今回は赤松氏からみた嘉吉の乱を見ておきたいと思います。

 

赤松氏と足利氏の関係は意外と新しく、建武の新政以降になります。もともとは大塔宮護良親王に近かったようです。もともとは赤松円心の三男の妙善が比叡山で律師となっていて、天台座主の尊雲法親王に近侍していたのが縁の始まりです。元弘の変で尊雲、還俗して護良親王に従い転戦します。『太平記』には芋瀬庄司のもとを通行する時に芋瀬が「御旗か側近を欲しい」と要求した時に妙善が「私を身代わりに」と名乗り出たことが記されています。平賀三郎が「今は一人でも惜しい。御旗を奪われたことにすれば芋瀬の面目もたちます」と進言して御旗を渡します。遅れてきた村上義光がその旗を奪い返し、護良親王が三人を激賞したと伝わります。

 

妙善がいつ名前を「則祐」と変えたかは知りません。一般には「則祐」の名前が有名ですので、以降則祐で統一します。

 

則祐は護良親王の令旨を父親や兄のもとにもたらし、それに応じて父親の円心らが挙兵し、六波羅探題滅亡に大きく寄与します。中でも関東から援軍に来た二部隊のうちの名越高家を円心の部下の佐用範家が討ち取ったことが、もう一つの援軍部隊の足利高氏の離反にも繋がり、赤松氏の勲功は非常に大きなものであったと思われます。播磨守護職に任命されますが、護良親王後醍醐天皇が対立すると、赤松家は冷遇されます。護良親王が失脚すると赤松氏も運命を共にし、播磨守護職も没収され、円心らは播磨に帰国を余儀なくされます。

 

円心らは足利尊氏に従います。尊氏が北畠顕家に敗れて九州に落ち延びた後、尊氏を討伐するために西下した新田義貞軍を白旗城で足止めさせ、尊氏の再起に大きく寄与します。

 

それ以降、円心は一貫して尊氏に従いますが、観応の擾乱足利直冬討伐に向かう準備中に急死、跡を継いだ嫡男範資も翌年には急死し、幕府から疎んぜられていた次男貞範を飛ばして則祐に継承させたことがいろいろ後年に禍根を残します。

 

則祐は実力者佐々木道誉の娘婿となり、幕政に大きな影響を行使するようになります。観応の擾乱の最中に護良親王の皇子の興良親王を奉じて南朝に降ります。舅の道誉も応じて南朝に降ります。足利直義足利尊氏が一旦対立したあと、高師直の殺害を経て和睦した直後のことです。足利義詮が則祐を討伐するために京都を出ます。さらに尊氏が道誉を討伐するために京都を出ます。直義はこの一連の動きを自分への攻撃準備の謀略と解釈して京都を脱出し、北陸に向かいます。

 

この一連の動きが謀略だったのか、それとも則祐らの動きはガチだったのかについては議論が分かれるところです。

 


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

 

 後に尊氏に帰順した則祐は楠木正儀によって京都を追われた足利義満を受け入れます。この時義満を慰めるために則祐が催した松囃子を赤松囃子と呼び、室町将軍家にとっての吉例として年中行事になります。

 

則祐の死後は義則が継承します。

 

一方貞範の子孫は春日部家となり、足利義持の側近の赤松持貞、足利義教の側近の赤松貞村を輩出します。特に赤松持貞の一件は赤松満祐には大きなトラウマとなります。

 

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