赤松氏からみた嘉吉の乱
赤松氏4代の動きを見ていて大きなターニングポイントは赤松則祐ということになります。則祐が兄の貞範を差し置いて赤松宗家を継承したことが後世に禍根を残すことになったのです。
貞範の子孫は春日部家と言われるようになります。春日部から出た赤松持貞は満祐にとっては放置できないトラウマを植え付けることとなります。
赤松義則が七十歳で死去した時、足利義持は播磨守護職を満祐から持貞に変えることを決定し、通達します。これに激怒した満祐は当然播磨国に下国することとなります。
これに逆ギレした義持は「美作と備前は安堵してやるのであるから文句を言うとはけしからん。播磨国も取り上げだ」といいます。
無茶苦茶です。播磨国守護職は赤松本家の印です。満祐からすれば「播磨一国と備前・美作、どちらか選べ」と言われたら播磨国を選ぶでしょう。
義持はそれを知らなかったのでしょうか。おそらくわかっていたと思います。義持は満祐を追い込んだのではないでしょうか。
それに抵抗したのが畠山満家です。満家は最終的に室町殿御所に使える侍女と持貞の密通疑惑を持ち出して持貞の失脚に成功します。
しかし義持はなぜだか持貞を処刑する、と言い出します。満済はそれに異を唱えますが、それに対する義持の反論が結構ひどい。
「俺は神に持貞を殺すと誓ったのだから、何を言われようとあいつを殺す」
ちょっと何言ってるんだかわかんないです。
満済は流石に持貞を高野山に逃亡させようとします。しかしすでに遅く、満済の準備が出来た時には持貞は自害させられていました。
命拾いした満祐ですが、やがて義持は死去し、義持を嫌っていた足利義教が室町殿となります。
満祐は義持に疎んぜられていたせいか、義教の信頼を勝ち得ました。侍所のトップとして正長の土一揆の鎮圧や後花園天皇の警備など、義教にとっては重要な職務を確実にこなしていきます。
畠山満家や満済の死去後は満祐くらいしか義教に意見できそうなベテランはいません。そのせいか永享9年には不仲が噂されています。それを打ち消すかのように義教は満祐を侍所に任命しますが、永享12年の事件でこの両者の関係は再びうまくいかなくなります。
永享12年、彼の弟の義雅の所領が没収されることとなりました。ほとんどは満祐に与えられたのですが、一部が春日部家の貞村の所領となりました。これは満祐からは我慢できない事態となりました。同年九月、彼は「狂乱」の名目で隠居、長男の赤松教康に家督を譲ることとなりました。
その9ヶ月後嘉吉の乱が起こります。