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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

三浦の乱への道ー日朝関係の変遷

9月26日のオンライン講座のお知らせです。

 

テーマは「三浦の乱」です。読み方は?関係者は?背景は?調べてみました。

 

三浦の乱は「サンポの乱」と読みます。「みうらの乱」ではありません。

 

「三浦」とは「釜山浦」(プサン)、薺浦(チャンウォン)、塩浦(ウルサン)の三ヶ所のことです。16世紀に日朝交易の日本側の拠点として整備されました。

 

16世紀の日朝関係ですが、日本側は朝鮮に胡椒や銅、金などをもたらし、朝鮮側からは主として綿布がもたらされました。

 

日朝関係は対馬と博多を起点として日本の商人の朝鮮への進出とともに朝鮮サイドは「浦所」を指定し、そこに日本人を定住させました。朝鮮に定住する日本人を朝鮮では「恒居倭」と呼称していました。ちなみに朝鮮では「日本」という呼称はあくまでも日本の中央政府、15・16世紀には室町幕府を指す呼称でした。それ以外は「倭」です。

 

建国当初の朝鮮を悩ませたのはいわゆる「倭寇」でした。「倭寇」といえば日本人の海賊行為という側面が強調されがちですが、16世紀の「倭寇」は後期倭寇と呼ばれ、その実態は中国南部の海商でした。

 

14世紀の末の朝鮮半島を襲った「倭寇」の正体は今の所対馬・松浦・壱岐を中心とした武装勢力と考えられます。

 

朝鮮側でもその対策に腐心し、「倭人」に対し様々な特権を認め、懐柔する方針をとります。商売を認め、利益を上げさせる「興利倭人」、日本の有力者である守護(巨酋)の朝貢使節としてさまざまな特権を与える「使送倭人」、朝鮮の官職を与える「受職倭人」など、倭人に様々な特権を与え、倭寇よりも利益を与えることによって朝鮮への海賊行為を抑制しようとします。この方針によって倭寇は15世紀になると沈静化しますが、日本側の姿勢、対馬大内氏など朝鮮通交を管理した有力者の動向、朝鮮側の政治姿勢などによって二転三転します。応永の外寇による武力制圧の試み、大内教弘による対馬の朝鮮編入の申し出、世祖における朝貢の拡大など様々な動きがありましたが、土木の変以降の変動により海域アジアにおける経済的なパイは縮小していきます。

 

いわば経済移民が大量に朝鮮に入国し、そこに倭人のコロニーを作り始めたのです。その倭人コロニーの中は完全に日本であり、日本国内の法が適用され、朝鮮から見れば治外法権の地が出来上がっていました。

 

このコロニーとしての三浦を拠点に日朝貿易が行われましたが、当時の対馬はその経済をほぼ朝鮮に頼っていましたので、いかにして朝鮮から多くの物資を引っ張って来られるかということに焦点が当たります。

 

基本的な流れとして日朝貿易は15世紀における日本の経済のV字回復により後衛量は増大します。しかし朝鮮側は様々な特権を日本側に付していましたので交易量の増大は朝鮮の国家財政の悪化に繋がります。したがってこのころの日朝関係は交易拡大を目指す日本側と、交易を抑制したい朝鮮側という図式となります。

 

1443年の嘉吉約条に伴い、対馬からの使送船の上限が50隻となります。

 

その対策として対馬から様々な使節が派遣されますが、これらの多くは実際の実態とは異なる「偽使」でした。

 

対馬のすごいのは琉球国王から朝鮮への使節も請け負っていたことです。琉球には朝鮮からの下賜品を送ればよいので、琉球から依頼がなくても定期的に送っていた、と言われます。

 

これだけでは足りなくなったのか、夷千島王なる使節まで作って朝鮮に送っています。

 

1488年に綿布と銅などの交易レートが引き上げられ、金や銅のこう貿易も禁止されました。対馬には銅の在庫が余り始め、対馬サイドの不満は蓄積していきます。