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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

意外な西軍贔屓

久しぶりの「後花園天皇ノート」です。

 

日野富子が息子の足利義尚を将軍にしようとして山名宗全に接近し、応仁の乱の端緒を作った、という話はしばしばなされます。『応仁記』に記されていますが、『応仁記』の記述については近年では疑問も出されています。義尚は伊勢貞親に養育されており、足利義視の排斥を謀ったのは貞親であって、宗全はむしろ義視を擁護する立場のはずだった、とされています。

もっとも『応仁記』の史料批判自体に疑問を呈する見解もあり、なんとも言えません。

 

ただ一次史料である『後法興院記』には日野勝光日野富子山名宗全に通じている、という噂を書き留めています。これは勝光が細川勝元への牙旗(将軍の正当性を示す旗)の授与に反対したことからの話でしょうが、勝元は怒って勝光に圧力をかけます。

 

そこで『応仁記』にはとんでもない大物の西軍贔屓の様が描かれています。

「室町亭行幸之事」というところに、勝元に謀反を企んだ奉公衆十二人が追放されることになるのですが、その十二人が次のように言上しました。

「山名方ヲ贔屓イタス事我等共ニ不限。殿中ノ面々一同ニ君ノ山名方御贔屓故奉公衆皆以敵方ノ得利事ヲ聞テ含笑、味方勝軍ヲ聞テハ愁候」

(山名方を贔屓致すことは、我らだけに限ったことではない。殿中の面々が一同に、また帝が山名方をご贔屓するため、奉公の衆は皆、敵方が利を得ることを聞いて笑いを含み、味方の勝ち戦を聞いては愁いております)(訳は志村有弘氏訳の『現代語訳応仁記』(ちくま学芸文庫、二〇一七年、初出一九九四年)

 


現代語訳 応仁記 (ちくま学芸文庫)

 

要するに「帝」が山名贔屓だった、というわけです。日野富子日野勝光足利義政どころではない大物が山名宗全に心を寄せていたとすれば、細川勝元は敵だらけ、ということになります。

もっとも本文を見る限りでは「君」と書かれているので義政か後土御門天皇か後花園上皇か、それはわかりません。

 

ただ子細に読んでみますと、次のように書いてあります。

「公方常ニ山名方ヘ御心ヲ被寄ノ由風聞ナレバ、今若十二人ヲ御同心アリテ山名方ヘ御出あらば、勝元ハ一院主上ヲ守リ奉テ合戦ヲバセントノ謀有ケルガ、公方様モ勝元ト一同ニテ十二人ヲ被追出ケレバ、細川方喜悦カギリナシ」

(公方がたえず山名方へ御心を寄せられているという噂であったので、今もしも十二人と御同心になって、山名方へお出でになったならば、勝元は一院・主上を守り奉って戦いをしようとのはかりごとであったが、公方様も勝元と同じ気持ちで十二人を追い出されたので、細川方は喜悦すること限りがなかった」

 

これを踏まえるならば先ほどの「君」は義政の可能性が大きいかと思います。というのは「殿中」は奉公衆がいるところ、と考えると幕府をさしており、天皇のいる場所は「禁中」「内裏」と書かれているので、この「殿中」の「君」は足利義政を指しているものと思われます。

 

このような記述もあります。

「此日西陣ノ敵内裏ヘ切入、君ヲ奉取ト云事有ケレバ、内裏仙洞、行幸御幸ヲ室町殿ヘ成可申之由勝元執被申ケリ」

(この日、(山名方の)西陣の敵が内裏に切り込んだ。「帝を取り奉れ」ということであったので、「内裏・仙洞は行幸・御幸を室町殿へなさるように」と、勝元は指示申した。)

 

ここでは「君」は「内裏」にいる人、つまり後土御門天皇を指しているでしょう。もっとも当時は後花園院政だったので、事実上は後花園上皇が狙われていた、というべきでしょう。

 

もっとも後花園上皇後土御門天皇の室町殿御幸・行幸については評判はあまり良くなかったようで、『応仁略記』には「八月以来院内裏両殿は将軍の御所に押籠られておはしませば」とか「終りは非道の臨幸行幸を申沙汰す」と書かれています。

 

これを見ると後花園上皇後土御門天皇は本人たちの意思に反して室町殿に連れ込まれたように読めます。『応仁記』でも義政が山名方に奔った場合でも院・天皇を手元に確保する狙いはあったようです。

 

この辺少し詳しくみていく必要がありそうですが、一つ、後花園天皇足利義政の関係について留意しておかなければならないことを指摘しておきます。それは後花園天皇足利義政に不服を唱えることはなきにしもあらずですが、それを義政が受け入れたことは一つもなく、後花園天皇は割合義政の決定に唯々諾々と従っていた、ということです。漢詩で義政を諌めた、というエピソードがあまりにも強烈なため、後花園天皇足利義政に強く出ていたかのような印象がありますが、それは幻想です。事実、義政の態度は改まっていません。そこはしっかりと押さえておく必要があります。