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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

明智光秀・木下秀吉連署状

明智光秀と京都、という突如始まったシリーズです。

ネタ本は藤田達生福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史』(八木書店、2015年)です。

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 今回は題の通りに明智光秀と木下秀吉の連署状を二通読みます。山崎の合戦(天王山の合戦)の当事者二人が一緒に仕事をしていたのも何かの縁です。

 

まずは3号文書です。奥野高広『織田信長文書の研究』189号文書です。

 


OD>織田信長文書の研究 上巻

 


OD>織田信長文書の研究 下巻

 


OD>織田信長文書の研究 補遺・索引

 

では見ていきます。

  猶以定納四百石宛ニ相定候也、以上

 城州賀茂庄之内、自先々落来候田畠、雖為少分、任御下知旨、賀茂売買之舛にて毎年四百石宛可運上、并軍役百人宛可有陣詰之由、得其意候、聊不可有如在事肝要候、恐々謹言

 四月十四日    〈木下藤吉郎〉秀吉(花押)

          〈明智十兵衛尉〉光秀(花押)

賀茂庄中

 読み下しです。

城州賀茂庄の内、先々より落とし来たり候田畠、少分たりといえども、御下知の旨に任せ、賀茂売買の舛にて毎年四百石ずつ運上すべし、ならびに軍役百人ずつ陣詰あるべきのよし、その意を得候、いささかも如在あるべからず事肝要に候、恐々謹言

なお以って定納四百石ずつに相定め候なり、以上

 意味です。『織田信長文書の研究』を最大限参考にしました。

山城国の(春日社領)賀茂庄のうち、前々より隠してきた田畑は少ないとはいっても、御下知の通りに賀茂売買の舛で毎年四百石ずつ運上すべきことと、同時に軍役百人ずつ陣に詰めさせることを理解した以上はいささかたりとも怠らないことが肝要です。

なお定納は四百石ずつに定めました。以上。

 この文書は永禄十二(1569)年に出された、と考えられています。前年九月に織田信長足利義昭を擁して入京し、大和国まで制圧します。信長の入京の時に春日社領の賀茂庄がいわば悪質な所得隠しをしていたのですが、それを信長が摘発して四百石を納入させ、さらに信長に対して軍役を務めることを余儀なくされます。

ちなみに「御下知」の主体は織田信長か、足利義昭か、という問題がありますが、私はとりあえず足利義昭ではないか、と考えておきます。

 

この辺は渡邊大門『明智光秀本能寺の変』(ちくま新書、2019年)に詳しく述べられています。

 


明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

 

 

ところが十二月、トラブルが起きます。

9号文書「明智光秀書状」です。こちらは『織田信長文書の研究』にはありませんが、早島大祐『明智光秀』(NHK出版新書、2019年)の60ページに詳細に紹介されています。

 


明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか (NHK出版新書)

 

当郷軍役之請状此方ニ在歟之由候、其砌取乱無到来候、若以後自何方出候共、可為反古候、将亦対両人被下候御下知之写遣之候、不可有疑心候、恐々謹言

 十二月十一日   〈明智十兵衛尉〉光秀(花押)

   賀茂惣中

読み下しです。

 当郷軍役の請状、此の方に在る歟の由に候、其の砌、取り乱し到来無く候、もし以後何方より出し候へ共、反古たるべく候、はたまた両人に対し下され候御下知の写はこれを遣し候、疑心あるべからず候、恐々謹言

 現代語訳です。早島氏の著作には非常に詳しく行間まで入り込んで解釈されていますが、こちらではあっさりと直訳でいきます。

当郷軍役の請状がこちらにあるのか、ということですが、ここのところ取り乱していたので(私の)手元にはありません。もし以後にどこからかその請状が出てきた場合にはそれは無効です。また両人(光秀・秀吉)に対し、下された下知の写しをそちらに送ります。信用してください。

 これは賀茂庄が提出した請状が紛失し、その弁明を光秀がやっています。「到来なく」と言っている以上は、紛失したのは光秀や秀吉ではなさそうです。

早島氏は義昭と信長の混成軍(光秀が義昭の、秀吉が信長の)だったため、いろいろ混乱があり、その後始末を牢人上がりの足軽衆の新参者(光秀)と「ハゲネズミ」と信長から評される貧相な若手の下っ端に押し付けられたものとしています。そして「疑心あるべからず」というのは、謝罪にやってきた二人がそもそも本物かどうかすら怪しかったので「証拠を見せろ」と詰め寄ったことへの弁明としています。

 

賀茂庄の住人から詰め寄られる光秀と秀吉、この二人がのちに「天下分け目の天王山」を戦うことになろうとはその場にいただれもが想像しなかったでしょう。

 

ただ、3号文書ですでに秀吉と光秀は賀茂庄の人々と関わりがあるわけで、厄介ごとを押し付けられた、というよりも以前から担当者だった、ということを考えると「疑心あるべからず」の内容は、「反古たるべき候」というところにかかるのではないか、という気もしています。