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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

寛正の飢饉 の検索結果:

足利義政ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

…と私は考えています。寛正の飢饉では全く無為無策だったのではなく、彼なりに手当てを行い、能動的で機動的な対策を打っています(東島誠氏)。さらには彼が御所の造営を止めなかったのは飢饉対策としての公共事業という見方もあります(藤木久志氏)。少なくとも拱手傍観していたわけではなさそうです。 この辺は大道寺右馬之介が「先の寛正の大飢饉の折も、伊勢守様は寝る間も惜しんで対策に当たられた。」と解説してくれている通りです(第1集17ページ)。 従来の応仁の乱にまつわる歴史では圧倒的な悪役であ…

長禄・寛正の飢饉ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

…って日本では「長禄・寛正の飢饉」を引き起こした、と言われています。 長禄・寛正の飢饉、特にひどかったのが寛正二年(一四六一)なので私は「寛正の飢饉」と呼んでいます。 この年、京都では8万超えの餓死者が出て、後花園天皇が足利義政に漢詩を贈って義政を諌めた、という逸話があります。 ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』では第1巻と第7巻で出てきます。 第1巻では17ページ〜18ページに新九郎の育ての親の大道寺右馬之介が「先の寛正の大飢饉の折も、伊勢守様は寝る間も惜しんで対策に当たられた…

拙著『乱世の天皇』見どころ13ー天皇論との関わり

…ら後花園をどう位置づけ直すか」という批判がなされたことでしょう。「知らんがな」としか言いようがありませんが。まあ後花園の場合は「寛正の飢饉」があり、「嘉吉の徳政一揆」があり、で結構民衆史にも踏み込んでいます。もっとも嘉吉の徳政一揆はほぼ今谷氏の『土民嗷々』に依拠していますが。 室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書) 天皇家はなぜ続いたか 土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ) 無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー) 異形の王権 (平凡社ライブラリー)

昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう8−長禄から寛正へ−

…ります。前回も触れた寛正の飢饉です。 寛正の飢饉については以下のエントリで述べた他、いくつかのエントリで触れています。 sengokukomonjo.hatenablog.com sengokukomonjo.hatenablog.com それでは年号の候補を見てみましょう。この改元が後花園天皇の最後の改元になります。 権大納言藤原勝光(日野家) 安永(『文選』「寿安永寧」) 寛正(『孔子家語』「外寛而内正」) 権中納言菅原継長(高辻家) 明和(『史記』「昭明合和万国」) 永…

後花園天皇の生涯−寛正二年正月一日〜寛正二年十二月晦日

この年は寛正の飢饉の真っ最中です。 関連記事 sengokukomonjo.hatenablog.com sengokukomonjo.hatenablog.com 寛正二年正月一日、元日節会本朝通鑑、続史愚抄五日、叙位続史愚抄七日、白馬節会続史愚抄八日、太元帥法を行う、後七日御修法は停止続史愚抄十一日、県召除目続史愚抄十六日、踏歌節会続史愚抄二月、天下疫饑あり、漢詩を足利義政に賜う新撰長禄寛正記三月二十八日、県召除目続史愚抄(二十七日・二十八日)この月天下疫饑による自ら般若…

後花園天皇をめぐる人々ー足利義政3

…いでしょう。 ただ、寛正の飢饉の時に後花園天皇が義政を漢詩で諫止したことを感謝し、崩御時も見守っている、というような話になりますと眉唾です。 というのは、義政は後花園天皇の漢詩による諫止には、一旦は応じたものの、結局最終的には作っています。義政の気持ちを想像すると「反省してま〜す、ちっ、うっせーな」というところでしょう。 義政の無能ぶりを示すネタとして、寛正の飢饉の時の義政の対応が使われますが、これは冤罪ではないかと思っています。東島誠氏も義政が無策だったわけではなく、彼なり…

後花園天皇をめぐる人々−足利義政

…ありませんでした。 寛正の飢饉での対応を私は批判するつもりはありません。飢饉で大量の餓死者が出ている中、御所を造営するなど贅沢三昧という見方は藤木久志氏や東島誠氏によって否定されつつあります。少なくとも義政はこの問題に従来にはない新しい方法で対応しようとしていた、とされています。 義政が無能なのは、守護への一貫性に欠ける介入です。畠山持国の後継者争いで畠山義就(よしひろ)と畠山政長の間でウロウロして結局応仁の乱を引き起こしたことは有名です。これは畠山家中が割れていたこと、そこ…

後花園天皇と空虚な中心としての天皇制

…っています。 現実の寛正の飢饉があまりにも残酷な現実であるため、そのリアリティの方に目がいくわけですが、作者の意図は違うところにあるのです。『長禄寛正記』の失敗は、あまりにもベースとした現実が酷たらしいために、英邁な天皇の意を体現する有能な将軍というストーリーが現実離れしてしまい、どう読んでも英邁な天皇(もしくは嫌味な天皇)に叱りつけられる愚かな将軍というストーリにしかならなくなってしまったところでしょう。 と、細かく見るとボロが出ているのですが、寛正の飢饉の終わりを告げるイ…

後花園天皇、綸旨を取り消される

…です。 あの、長禄・寛正の飢饉の時に民の苦しみも顧みず、御所の造営にかかりっきりになっていたあの無能な義政に、義政に漢詩で諷諫を加える英邁な天皇が、綸言を取り消されるとは!(『長禄寛正記』限定)あの、蠣崎蔵人を北海道に追い落とした南部政経を宮廷に読んで涙を流しながら感謝の意を述べたあの英邁な天皇が、政経の挑発にビビってしまったヘタレの義政に!(『東北太平記』限定) 問題の綸旨は東島誠氏にも「この綸旨もおかしなもの」と一刀両断にされています(『公共圏の歴史的創造』二〇〇〇年、東…

『東北太平記』に登場する後花園天皇

…能力はありませんが、寛正の飢饉で漢詩を駆使して義政をいびり倒す後花園らしくはないかな、と思います。勅撰集に十二首入集し、詩歌管弦に堪能だったと伝わる後花園にふさわしい歌とは思えません。 政経は帰国することになります。「態と室町殿に差かゝり、懸らは討んと意を含み、悠々として打通り」と最後まで義政ディスには余念がありません。 義政ディスに何度も言及してきましたが、これ意外と大事だと思っています。勤王と足利家ディスは江戸時代後期に出てくるものであって、江戸時代初期に足利家ディスと勤…

『新撰長禄寛正記』における後花園天皇

… そこで後花園天皇は寛正の飢饉による惨事をよそ目に室町邸造営にふける足利義政に対して漢詩を送って諌めた、という役割を与えられています。愚かな将軍と英邁な天皇という、ある意味非常に好まれる題材であると言えましょう。 該当部分を示します。 同年ノ春ノ比ヨリ天下大キニ飢饉シ又疾疫悉クハヤリ、世上三分二餓死ニ及。骸骨街ニ満テ道行人アハレヲモヨヲサズト云コトナシ。然ドモ時ノ将軍義政公ハ去ル長禄三年二月花ノ御所ヲ作リ、是ヲ御テウアイ有。山水草木ニ日々人民ヲツイヤシ、水石ヲ立ナラベ国ノ飢饉…

後花園天皇の生涯

…も起こります。そして寛正の飢饉による足利義政への諷諫が行われたのもこの時期です。この時期は後花園がもっとも輝いていた時期といっても過言ではありません。 第四期は後花園院政期です。後花園は嫡子の成仁親王(後土御門天皇)に譲位し、院政を開始しますが、三年後には応仁の乱が勃発、その引き金を引いたことに対する責任を取り、出家して政務から引退します。そしてほどなく急死します。 後花園天皇に関しては、実は本格的な評伝は出されていません。またミネルヴァ日本評伝選や人物叢書でも取り上げられる…