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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

詳しいプロフィールはこちらから

*このページは告知用に一番上に置いています。2ページ目からご覧ください。

2022年9月10日にイーストプレス社から渡邊大門監修『徳川家康の生涯と全合戦の謎99』が出ます。天正壬午の乱から奥州仕置きまでの家康について書いています。Q38〜Q52までが私の担当です。

 

www.eastpress.co.jp

 

 

2022年9月6日に雑誌『歴史群像』2022年10月号(175号)に拙著に関するインタビューが出ます。

rekigun.net

 

2022年7月21日に拙著『神風頼みー根拠なき楽観論の歴史』が柏書房から出版されます。

神風頼みー根拠なき楽観論の歴史

元寇」「国体の形成」「特攻」、そして現代ニッポンに至るまで……日本史を貫き続けてきた「神国思想」の正体をスリリングに検証!

「日本は神風が吹く、神に守られた特別な国」という「神風思想」が生み出す「ニッポンすごい!」「独り善がりの排他主義」「根拠なき楽観主義」……元寇から特攻まで日本史を貫きつづけてきた「神風思想」は、太平洋戦争における敗戦という結末を迎えることとなったが、その意識自体はいまだ日本人の心に根強く生き続けている。
本書は、「神風思想」がいかに形づくられていったかを、史実に沿って検証、「神風が吹いたのは日本だけではない」「神社による立派な〈武器〉だった神風」「実は友好的だった元寇前のモンゴルの外交姿勢」「天皇制をこき下ろした天皇」「〈神の国〉ではなく〈人間本位〉を考えていた中世の政治家たち」「立憲制を念頭に置いていた大日本帝国憲法」など、日本が決して「神風思想」だけに凝り固まっていたわけではないことを示す事実を挙げながら、「神風思想」とそれに対峙する形の「撫民思想」とのせめぎ合い、そして「神風思想」の根幹をなす「根拠なき楽観」が招いた悲劇の過程を辿っていく。
歴史的論考としてはもちろん、コロナ禍、ウクライナ戦争など混迷の時代において危機をいかに克服していくべきかの指針ともなる一冊。

【目次】
第一章「元寇」と「神風」――元寇が生んだ「神風」意識の誕生と定着
第二章 神国ニッポン――日本はよそとは違う特別な国なのだ!
第三章〝人のために神がある〟――「敬神」へのアンチテーゼとしての「撫民」
第四章「国体」の形成――近世に見る「神の国」の復権
第五章 神武天皇足利尊氏――国家の学問介入を象徴する二人
第六章「神の国」か「立憲主義」か――大日本帝国憲法をめぐる議論
第七章「神風」の終末――「神の国」が最後に目にしたもの

 

2022年6月23日に渡邊大門氏編『諍いだらけの室町時代ー戦国に至る権力者たちの興亡』が柏書房から出版されます。

私も「伊勢宗瑞の下克上の虚と実」を執筆しています。

伊勢宗瑞は北条早雲と呼ばれた下克上の代表の人物として扱われてきましたが、近年の研究の進展によって全く新しい姿が明らかになっています。その姿はゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』にも描かれています。『新九郎、奔る!』を読む際の参考となるように意識して書きました。

よろしくお願いします。

諍いだらけの室町時代(柏書房)

 

 

 

3月23日に出ました。

www.seikaisha.co.jp

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合戦からひもとく「天皇が二人いる」混乱の時代

 

日本史上初の武家政権であった鎌倉幕府が終焉したとき、なぜ天皇が二人になり、国内が相分かれて争うことになったのか。後醍醐天皇の倒幕運動をきっかけとして、護良親王北畠顕家楠木正成新田義貞足利尊氏高師直など『太平記』で知られる有名武将たちは何のために戦い、また散っていったのか。本書では、戦国・織豊時代と比較すると個々の「合戦」の実態がほとんど知られていない南北朝時代の主要合戦にスポットを当て、合戦の背景や経過、合戦のもたらした影響について、気鋭の中世史研究者たちが詳しく解説する。

 

<執筆陣>

渡邊大門(編著)、生駒孝臣、稲川裕己、小谷徳洋、谷口雄太、千葉篤志、秦野裕介、前川辰徳

 

今回序章「両統迭立から正中の変・元弘の変まで」、第四章「和泉堺浦・石津の戦い」(北畠顕家)、第九章「九州における南北朝の動乱」の三つを執筆しました。

 

 

 

8月25日にでました。

関ヶ原合戦人名事典ー東京堂出版

私は「徳川家康」「真田昌幸」「真田信繁(幸村)」「大谷吉継(刑部)」「前田利長」など関東・北陸・中部の武将を担当しています。


関ヶ原合戦人名事典

豊臣秀吉亡きあと、わずか2年で日本の様相を一変させた関ヶ原合戦
関ヶ原合戦岐阜県で行われた本戦だけでなく、本戦未参加の大名・武将らも東西に分かれて東北や九州等で戦った全国規模の大合戦である。本書は大名・武将ら300余名の、合戦時および合戦前後の動向がわかる稀有な人名事典。

 

 

 

2021年3月末に出ました。

私は第一章「観応の擾乱」と第八章「禁闕の変」を執筆しております。

重版が出ます。

www.kashiwashobo.co.jp

 

 

リサーチマップです。私の業績などがまとめられています。

researchmap.jp

 

2020年7月22日に初めての単著を出版しました。よろしくお願いします。

 

www.tokyodoshuppan.com

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

 

 

毎週木曜日にオンライン歴史講座の講師をしております。

asanojinnya.net

 

 当ブログは浅野陣屋札座保存ネットワーク様の旗本浅野家若狭野陣屋に残る札座の保存運動に賛同しております。

 

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研究者と学ぶ日本史講座 - YouTube

 

 

 

 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

yuusukehatano617◆gmail.com(◆の部分を@に変えてください)までお願いします。

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足利尊有御内書

またあやしげな人物が出てきました。足利尊有。足利氏関係のウィキペディアを見ている方は誰だかわかります。大覚寺義昭です。

 

こういう「要出典」と言いたくなる場合は『大日本史料』のデータベースを見てみると色々わかります。義昭が「尊有」と名乗っている史料が出てきます。

 

永享十一年八月二十五日条に「大覚寺義昭、樺山孝文に書を遣り、義教を撃たんことを謀る」として「薩摩文書」が挙げられています。

 

同じものが鹿児島県のサイトの「旧記雑録拾遺 家わけ五」に載っています。

http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20230112114935-1.pdf

 

ただ私はこの文書が正しいのかどうかについては疑問を持っています。というよりも私は、この文書は偽文書であると断言していいと思います。1000兆ZWL(ジンバブエドル)をかけてもいいです(3JPY相当)。

 

本文に関心のある方は上のリンクの「傳家龜鏡(六)」の一二三号文書を見ていただくことにして、私の引っ掛かりポイントを示します。

 

いきなり「是偏義教公盗行悪逆無当之政道故也」とあります。

 

こういう書き方、普通はしません。普通は「室町殿」とか「前左大臣」とか「前左相府」とか官途で書くか、諱を書きたければ「義教」と呼び捨てにするでしょう。「義教」という諱に「公」という敬称をつけるケースは管見の限り見たことがありません。

 

次に字数を数えてみますと、一六一字あります。長すぎます。

この文書のタイトルは「大覚寺尊有〈義昭〉御内書案」となっています。そして日付をみると「八月廿五日」とあって、年号は付いていません。

確かに御内書です。しかし御内書というのはこんなに長いものではありません。百二十四号文書に「足利義教御内書」とあります。これはもう御内書オブ御内書です。

 

あと名前です。「尊有」(たかもち)と名乗るでしょうか。足利家の家督の通字は「義」です。だから赤松満祐が奉じた人物は足利義尊と名乗るのです。持氏は嫡子に「義久」を名乗らせるのです。義昭だけなぜ「尊有」なのでしょうか。

 

とまあいろいろ言ってきましたが、確証とまではいいませんが、偽文書の可能性は結構あると思っています。

 

もう少しいろいろ考えてみたいと思います。

 

妙興寺蔵「足利義教像」

 

日野義資の所領没収

久しぶりの更新です。

 

日野義資、と言えば、義教ファンからすれば「ああ、あの人ね」とすぐに分かるネタです。一応義教ファンではない方も読んでいる可能性を考慮して日野義資と足利義教について説明しておきます。

 

一般に言われているのは次の通りです。

 

日野義資は日野重光の嫡男といえば、義満の正妻である康子や義持の正妻である栄子の甥に当たるということが、室町幕府ファンならば容易に理解できます。もう少しわかりやすくいえば、将軍家の外戚を代々出してきた日野家の当主で、叔母や妹が将軍家御台所になりまくっている人物です。

 

そのような人物ならばさぞかし権勢を振るっていただろうな、と思えますが、義教ファンの皆様はとっくにご承知の通り、義資の運命はそのような華麗なる出自とは似つかわしくない過酷なものでした。

 

足利義持が急死してくじ引きで同母の弟で天台宗比叡山延暦寺の元天台座主を務めていた青蓮院門跡の義円僧正が後継者に決まりました。彼は後継者に決まると直ちに日野義資邸に移動し、そこで様々な儀式に臨むことになります。名前は義宣と決まりましたが、のちに「世を忍ぶ」に通じるとして義教と改名します。

 

さらに義資の妹の宗子が義教の正室に決まり、彼の運命は前途洋々と思われましたが、そうは問屋がおろしません。

 

義教が青蓮院門跡だった時代に不忠を働いた廉で義教の恨みを買っていたようです。所領を没収され、籠居していました。

 

さらに宗子は離縁され、彼の運命は極めて厳しいものと思われましたが、もう一人の妹である重子が義教の側室になっており、彼女が長男の義勝を産みます。これで義資の運命も開けるかと思われました。

 

義資の運命が開けると思った人々は義資のもとにお祝いを述べに行きました。しかし義教は義資を許すつもりはなかったのみならず、義資のもとに人々は参賀したことが気に入らず、義資邸に言った人々を調べ上げ、全員を処分しました。

 

それだけでも大概ですが、義教はいよいよ義資を憎み、アサシン(暗殺者)を放って義資を暗殺しました。もちろんアサシンが義教の手のものだと分かるようにはしません。公式には強盗の被害にあったように装いました。しかし首がなくなっていたことから、首は身元確認に必要だ、強盗ではなく目的は義資の命だったのではないか、義資を一番殺したがっているのは義教だろう、という非常に明快かつ単純で間違いなく正しい推理を人々はしたに相違ありません。

 

高倉永藤はその推理を口にしました。薩摩硫黄島に流されてしまいました。永藤は二年後現地で死去します。

 

さて、義資はなぜそこまで義教の恨みを買ったのでしょうか。

 

いろいろ調べてみますと意外なことが分かります。

 

東坊城秀長の『迎陽記』をみますと、義教は幼少期に重光邸で養育されていたようです。つまり義教と義資・宗子は幼馴染だった可能性が高いです。ちなみに義資は義教の三歳下です。ちなみに重子は十八歳差で、そのころは義教は青蓮院門跡となっていましたから、幼馴染とはいえません。

 

次に義資が所領を没収され、転落の道を辿り始たのは正長元年五月二十一日です。この日付がどうした、と言われそうですが、これは宗子との婚儀の一ヶ月前です。翌年の三月には宗子は女子を出産します。

 

つまりこの段階では義教は日野家を決して敵視してはいないのです。表向きは。

 

では義資はなぜ所領を二箇所没収され、さらに籠居に追い込まれたのでしょうか。

 

建内記』正長元年五月二十三日条をみてみましょう。

 

面倒臭いので大意を示します。

 

日野中納言義資の所領の近江国日野牧は重光の時に守護請となった。その後義資が相続したが、この代官職を叔父の烏丸豊光が義持から拝領し、管理してきたが、豊光が義持の怒りを買って代官職を取り上げられ、義資が直接管理することとなった。それを元通りにする、と将軍の命令が出たが、義資はこれにキレて遁世すると騒ぎ立て、義持後室の栄子が宥めてなんとか事なきを得た。義資の行為は軽率でイミフだ。

 

義教は義持の時代の厳しい処分を批判していたようで、義持時代に取り上げられた所領を返還する、ということを頻りに行っています。これも本質は義持に理不尽に取り上げられた烏丸豊光の代官職復活であった、といえそうです。

しかし義教のこの義持時代の政策の否定が大騒ぎになります。もちろん騒いだのは義資と栄子です。義持後室で義資の叔母である栄子にすれば義資の所領を取り上げるということもさることながら、義持時代の実績を否定されることが面白くなかったのでしょう。

 

 

建内記』同年五月二十八日条の大意です。

 

義資の所領の三河国和田荘を和田に与えたという。先日日野牧代官職を豊光に与えたが、本年貢は義資に納めよということであった。原因が義教の怒りということで義資が遁世すると騒ぎ出し、栄子が宥め、事情を義教にただしたが、義教の答えは「日野一門を滅ぼそうというのではありません。青蓮院門跡に対して不忠がありましたので、門跡領については没収しました。ただ今は義資に対して遺恨はありません。だから後継者に決まってからは義資邸にも入りました。日野牧についえはもともと豊光のものだったということなので豊光に返したまでです。義資を滅ぼそうとは思っていません。ただし和田荘の事は一万疋を和田に支払えという義持の命令を無視したので、裁判で決まりました」とのことだ。これは理屈が通っている。義教が変なことを言っているわけではない。

 

これを見る限りでは悪いのは義資ということになりそうです。

 

つまり義資が本来保持すべきではない権益にしがみつき、それを是正しようとした義教に逆ギレをかました、というのが真相なのでしょう。

 

もっとも義教はそのことを根に持ち、最後には殺してしまいます。義教が執念深く、バランスを逸した人物である、ということは言えますが、義教だけが悪いのか、という気もします。

 

義教にしてみれば義資が自分との関係を利用して横車を押そうとしていたことが大いに気に食わなかった、ということになりそうです。ちなみに永享の山門騒動も同じ図式ではないかと私は考えています。

 

妙興寺蔵「足利義教像」

 

足利義教容疑者を殺人の容疑でうわなにをするくぁwせdrftgyふじこlp

備忘録です。

『公名公記』(西園寺公名の日記)永享十年(一四三八)七月二十二日条に次のような記述がありました。

 

武家去十三日、以金杖被殺害座右痴女云々。未曾有事也。

 

ちなみに伏見宮貞成の仕女で、義理の母(父栄仁親王の側室)の東御方は「金打」(太刀をカチャカチャ言わせる事)で追放したことを、杖で殴りつけた、と解釈する過ちがあります。拙著『乱世の天皇』ではその過ちを指摘した初めての著書ではないか、と自負しておりますが、誰も何も反応をくれません。

 

ただその過ちは『公名公記』にのみ書かれているもので、『看聞日記』同月14日条には「燈爐今日自公方賜之処、無其儀。不審也。聞。昨日就女中事、有御機嫌悪事云々」とあります。おそらく同じ事件について述べているのでしょう。

 

ただ貞成のあまりののんびりした対応に少しびっくりします。

 

そこで私は「金杖」と「金打」はおなじ「きんちょう」と呼んで同じことをしているのではないか、と思います。義教は機嫌が悪くなると「金打」、つまり太刀をカチャカチャ」言わせる癖があった、と言えるかもしれません。

「関東大名」南部氏

『看聞日記』応永二十五年八月十日条に次のような記述があります。

 

関東大名南部上洛、馬百疋・金千両室町殿へ献之云々

 

この短い史料にはいろいろ考えるべき点があります。例えば「金千両」というその「金」はどこの産か、という問題も「奥州の砂金と言えば有名だよね」という問題ではないかもしれません。実は北海道の砂金だったかもしれないのです。

 

馬はどこのでしょう。これは「糠部って馬の産地だよね」と言われればその通りで、「糠部の駿馬」については研究もあります。

 

私が今回こだわりたいのは「関東大名南部」という言葉です。

 

「関東」と「東国」については『看聞日記』においては意味がはっきり異なります。

 

とりあえず見てみましょう。

面倒臭い人はとりあえず飛ばしてください。

 

重衡朝臣関東下向之時(応永二十三年五月三日条)
今夕関東飛脚到来(中略)関東へ先御使可被下云々(応永二十三年十月十三日条)
昨夕自関東重飛脚到来(中略)関東京都敵対申歟之間天下大乱之基驚入者也(応永二十三年十月十六日条)
関東事、左兵衛督腹切事虚説也(応永二十三年十月廿日条)
自関東昨夕又注進(応永二十三年十月廿九日条)
近日就関東事、弥被恐怖云々(応永二十三年十月卅日条)
自関東一昨日飛脚到来(応永二十三年十一月九日条)
東武衛室町殿御旗被申(応永二十三年十二月十一日条)
関東謀叛彼亜相所為云々(応永二十三年十二月十六日条)
以御旗関東下着(応永二十四年正月三日条)
十九日自関東飛脚到来(応永二十四年正月廿一日条)
近日関東事静謐(応永二十四年二月十二日条)
自関東使節上洛、馬五十疋・唐櫃五十合・料足一万貫、公方諸大名進物到来云々、合戦御合力被畏申御礼云々(応永二十四年    三月五日条)
関東使節被見云々(応永二十四年六月七日条)
長老舎兄関東ニ被座(応永二十四年十二月廿日条)
関東大名南部上洛、馬百疋・金千両室町殿へ献之云々(応永二十五年八月十日条)

抑聞、室町殿与関東有不快之事(応永三十年七月十三日条)
関東討手下向事、室町殿諸大名参有評定(応永三十年七月十三日条)
聞、関東事已有合戦云々(応永三十年七月廿三日条)
抑関東蜂起事(応永三十年八月三日条)
関東討手大将進発治定也(応永三十年八月八日条)
関東事今月二日夜討有合戦(応永三十年八月廿日条)
関東・筑紫兵革蜂起(応永三十年八月廿四日条)
西星ハ京都、東星ハ関東歟(応永三十年十月二日条)
抑関東事、建長寺長老并足利代官神保ゝゝ為使節上洛、是反逆之企可蒙御免之由被歎申云々(応永三十年十一月廿八日条)
抑関東事神保上洛、依懇望大略可属無為云々。関東不可思儀吉瑞風風聞(応永三十年十二月二日条)

抑関東事静謐治定云々。仍昨日室町殿へ諸人参賀云々。(応永三十一年二月七日条)
抑関東静謐事、室町殿へ外様人々賀申云々。(応永三十一年二月十三日条)
城竹関東ニ可下向云々。(応永三十二年四月二十五日条)
後聞、関東武将亭此日焼失云々。(応永三十二年八月十四日条)
抑関東武将御使建長寺長老上洛、(応永三十二年十一月卅日条)
抑関東使節二階堂駿河守此間上洛(永享三年三月十九日条)
関東之進物(永享三年七月十九日条)

関東管領之使者上洛(永享四年二月廿九日条)
但関東ニ有物言(永享四年九月二日条)
関東有物言(中略)関東存野心可有恐怖事歟。(永享四年九月十日条)
自関東も金・御馬数十疋被進云々。(永享四年十月一日条)
勧進年内関東へ可下向之由申。(永享四年十月廿九日条)
抑自関東使節上洛(永享五年三月十八日条)
抑関東有不思儀之怪異(永享五年十月廿六日条)

山門ニも公方を奉呪咀、関東上洛事申勧云々。(永享六年八月十八日条)
自鎌倉雖被執申、不被聞食入、仍関東被企上洛云々。(永享六年十一月四日条)
関東ニも有兵革云々。(永享七年十月三日条)
関東事物言属無為、御馬数十疋被進申御礼云々。(永享七年十一月廿七日条)

信濃落居又破関東合力勿論、管領職辞退云々。(永享九年五月六日条)
関東上杉為京方致諫言之間欲被退治已及合戦(永享九年七月三日条)
関東又物忩云々。(永享十年八月廿二日条)
関東事且無為云々(永享十年九月一日条)
関東事管領分国大森拝領、而大森城墎没落云々(永享十年九月二日条)
関東事已御中違治定(永享十年九月五日条)
是関東御退治為朝敵御征伐云々(永享十年九月十二日条)
甲斐等今日東国下向、関東為征伐云々(永享十年九月十六日条)
昨夕又関東飛脚到来(永享十年十月十日条)
抑関東事西山注進到来(永享十年十月卅日条)
関東事未落居也(永享十年十一月五日条)
抑関東事注進到来、武将居所押寄焼払(永享十年十一月十七日条)
関東且無為之御礼進御剣(永享十年十一月十九日条)
関東事、先日不参人々関白以下参賀云々(永享十年十一月廿一日条)
関東首六〈上椙陸奥守父子、一色、海老名等云々(永享十年十二月九日条)
関東事人々室町殿参賀(永享十年十二月十一日条)
自関東僧上洛、武将降参事、前管領執申使節云々(永享十年十二月十五日条)
今日関東有大合戦(嘉吉元年正月一日条)
乱傷ハ関東へ可罷向之由被仰故障申(嘉吉元年正月廿九日条)
関東城一落之由注進有(嘉吉元年四月廿三日条)
関東御礼御剣〈黒〉(嘉吉元年四月廿八日条)
自関東首共上洛云々(嘉吉元年五月三日条)
自関東首共又上洛(嘉吉元年五月七日条)
東武将息三人生捕上洛(嘉吉元年五月十九日条)
関東無為之御悦事(嘉吉元年五月廿二日条)
関東賀酒(嘉吉元年五月廿六日条)
関東召人今夜被勿首云々(嘉吉元年六月十四日条)

先度関東下向之時、両度申出(嘉吉三年七月十二日条)

 

とりあえず「関東」という言葉はほぼ「鎌倉公方」その人か、「鎌倉府」かということがわかります。特に「関東○○」というような形は完全に「鎌倉府の〇〇」ということが言えます。その中で「関東大名」だけが漠然とした「東の方」という意味であるはずはあり得ません。これは「鎌倉府の重臣」と解釈すべきです。

 

ちなみに南部氏は京都扶持衆と考えられてきましたが、この史料を見る限り「南部氏=京都扶持衆」という単純化は問題だと考えます。というよりもこれは15世紀後半以降の史料に基づく憶断と言えるでしょう。またこの「南部」を三戸南部守行と見る見方もありますが、なんら根拠はありません。

 

この史料の種明かしはそのうちに論文を書きたいと思います。

伊勢貞陸の結婚と明応の政変ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』13集の132ページから新九郎の従兄の伊勢貞宗の嫡男伊勢貞陸の縁談があります。正親町三条公綱の末娘との婚姻です。九代将軍足利義尚の寵愛していた女性が、義尚の寵愛が薄れたため、大御台所の日野富子の仲介で成立しました。そのことについて百四十ページに「彼女が貞陸に嫁いだことが、新九郎の一家の新たな運命を拓くことになるのだが、それはまた後の話」とあります。

 

ここで唐突ですが、明応の政変という事件について説明します。

 

新九郎にもゆかりの深い足利義尚死後(長享3年・1489年)の将軍の行方ですが、足利義視の子の足利義材足利義稙の名前が有名なので以下義稙に統一します)と足利政知の子の天龍寺香厳院清晃(後の足利義澄、以下義澄に統一します)が候補者として名前を連ねます。細川政元は義澄を推しますが、富子は義稙を推しました。結果は義稙が将軍、義視が将軍後見となりますが、義政死後(延徳2年・1490年)に富子が義澄に小川殿を与えたことで義視・義稙が猜疑心を持つようになり、富子・貞宗と義視・義稙の関係は悪化します。

 

義視の死後(延徳3年・1491年)、義稙は管領畠山政長を重用し、将軍権力の強化を目指して六角氏征伐(義尚の遺志の完徹)に続いて畠山基家畠山義就の子)征伐に出陣します。

 

この留守を突いて政元は挙兵し、政長を自害に追い込み、義稙を幽閉して将軍から引き摺り下ろし、代わりに義澄を将軍に据えます。これが明応の政変と呼ばれる事件です。明応2年・1493年のことでした。

 

細川政元が将軍を自分の意のままにしたこと、そしてこれ以降将軍家が足利義稙系統(義稙ー義維ー義栄)と足利義澄系統(義澄ー義晴ー義輝ー義昭)に分裂し、対立抗争を繰り広げたことから、明応の政変こそが戦国時代の始まり、という見方も根強くあります。

 

さて、明応2年・1493年といえば『新九郎、奔る!』の読者であれば、その初っ端のシーンが思い浮かぶことでしょう。

「明応二(一四九三)年 伊豆北条 「鎌倉公方」の御所」「一人の男が 歴史の表舞台に 躍り出た」「室町殿奉公衆 伊勢新九郎盛時 三十八歳!主命により足利茶々丸様の御首頂戴に参上仕った!!」

 

そうです。北条早雲下克上物語の一大イベント、伊豆討ち入りです。一介の素浪人伊勢新九郎が将軍家御連枝の足利茶々丸を弑殺して伊豆国を乗っ取った事件です。

 

実は明応の政変伊勢新九郎の伊豆討ち入りは一連の動きでした。

 

明応の政変で将軍になった足利義澄には同母の弟がいました。潤童子といいます。彼が堀越公方足利政知の嫡男です。しかし庶兄の足利茶々丸が潤童子とその母を殺害し、堀越公方を継承したのです。そして茶々丸に殺害された潤童子とその母の恨みを晴らすべく室町公方の義澄が派遣した室町殿奉公衆こそ伊勢新九郎盛時三十八歳だったのです。

 

この事件は東島誠氏の『幕府とは何か』(NHK出版、2023年)においても取り上げられています。そこでは家永遵嗣氏の、この一連の動きを同時多発クーデタと見る見方が紹介されています。そしてその要こそが義澄の側近の正親町三条実望なのです。

 

実望の祖父の弟が正親町三条公綱で、その娘が伊勢貞陸に嫁いだわけです。ということは、明応の政変は伊勢氏も大きく関わっていたわけですが、新九郎のクーデタも伊勢氏による明応の政変の一部だったわけです。

 

『新九郎、奔る!」における伊勢氏の系図を作成してみました。『新九郎、奔る!』では新九郎は側室の所生となっていますが、実際には諸説ありまして、一般には北川殿と同母とみられています。以下の系図はあくまでも『新九郎、奔る!』仕様となっておりますことをご承知ください。それから北川殿以外の名前(北川殿の「伊都」も含め)は全て架空の名前です。

 

新九郎を中心とする同時多発クーデタの人脈図

いかがでしたか。明応の政変堀越公方の滅亡が伊勢氏を中心とした同時多発クーデタであることがわかると思います。

 

また東島氏の著作では北川殿についても触れられています。北川殿は今川氏親の母親であり、伊勢宗瑞の姉、北条氏綱の伯母にあたります。そして彼女の生前には彼女は今川氏と北条氏の盟主的な存在であった、と東島氏は指摘しています。『新九郎、奔る!』第11集の138ページに伊都(北川殿)が龍王丸(今川氏親)を抑えながら「新九郎!龍王押さえててって言ったでしょう!!」と新九郎に怒鳴りつけているシーンがあります。この一コマだけでも北川殿が北条氏と今川氏の盟主的な存在たりえたことを見事に表現しています。

 

 

 


新九郎、奔る!(13) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(11) (ビッグコミックス)

 

 


「幕府」とは何か 武家政権の正当性 NHKブックス

大館尚氏登場ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ぐずぐずしているうちに第13集が出て久しくなりました。

 


新九郎、奔る!(13) (ビッグコミックス)

 

 

13集では大館尚氏(おおだちひさうじ)が活躍しています。「大館」は「大舘」と書かれることが多いので本ブログでは「大舘」で通します。

 

初登場は意外と古く、第2集の69ページ、「蜷川新右衛門の室町コラム④」に奉公衆五番頭として出てきます。

名前だけ66ページに出てきます。細川勝元襲撃事件の実行犯が奉公衆五番衆だったことで「五番衆というと番頭は大舘殿か」「切腹物だな、これは」と伊勢家内部で囁かれています。

他人事のように「その点我が一番衆の番頭は細川淡路守だ」「右京大夫殿にとって、これほど頼りになる番衆はおるまいよ」と言ってますが、そこに大道寺太郎が「伊勢備中守様に御謀反の疑いありとのことで、一番衆は御所には入らず備中守邸を包囲せよと!!」と入ってきます。新九郎の母と弟がいるところです。

 

第10集では足利義政と義尚が細川聡明丸(政元)の邸への御成の際の御供衆を新九郎が務めてますが、その御供衆を取り仕切っていたのが大館治部少輔尚氏です。

 

13集では新たに申次衆となった新九郎の前に指導者的な存在として出てきますが、新九郎に対し「僭越でござるぞ、新九郎殿。聞けば御所様の幼き頃よりの親しいおつきあいのようでござるが」「今度の申次はこの大館治部が全権を任されておるのだ!それがしがお願いして参る!!」と威圧しています。新九郎の従兄弟の伊勢貞固が「新九郎、お前なぁ、大館殿の面子をつぶすようなこと言うなよ」とぼやいています。

 

大舘氏は新田氏の一門で、鎌倉攻めの時に極楽寺切通を攻めて大仏貞直の家臣本間山城左衛門に打ち取られた大舘宗氏が有名です。宗氏の兄の綿打為氏は北畠顕家とともに戦って戦死しています。

 

宗氏の子の氏明も南朝方として奮戦し、細川頼春と戦って戦死しています。

 

氏明の子の義冬が佐々木京極導誉の取りなしで足利義満に仕えることとなり、大舘氏は奉公衆五番衆の番頭を代々務めてきました。

 

足利義政の乳母で「三魔」と呼ばれた今参局は大舘満冬の娘です。

 

満冬の兄の満信の曽孫が尚氏です。享徳三年(一四五四)の生まれですから新九郎より2歳の年長となります。ちなみに尚氏の叔母に義政側室の大舘佐子がいます。

 

足利義尚の側近として台頭し、義尚死後も一旦は失脚しますが、すぐに幕政に復帰し、その後も奉公衆・申次衆・内談衆など、義尚・義稙・義澄・義晴の側近を歴任します。変わり身の速さが持ち味で、ややこしい政治情勢をうまく潜り抜け、天文十五年(一五四六)まで生存が確認されています。少なくとも90歳を大きく超える天寿を全うした人物でした。

 

大舘尚氏は晩年は出家し「常興」と名乗りますが、この「常興」の方が有名です。『大舘常興日記』は足利義晴政権、ひいては戦国期室町幕府を研究する上では必須の資料であり、また『大舘常興書札抄』は書札礼の検討に欠かせません。また彼が集積した『大舘記』は室町将軍家の御内書の集積であって、室町幕府全体の研究に大きく寄与しています。『大舘記』は天理大学に所蔵されています。