記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

渡邊大門編『考証 明智光秀』(東京堂出版)発売のお知らせ

渡邊大門編『考証 明智光秀』(東京堂出版)発売開始です。

 

私も第四章「明智光秀と京都支配」を書いております。よろしくお願いいたします。

 

www.tokyodoshuppan.com

 


考証 明智光秀

 

 

内容紹介

出自や正確な生年月日さえも未だにわかっていない明智光秀。しかし、光秀が戦国の世に生きた証しは少なからず残されている。本書では光秀に関する14のテーマを取り上げ、一次史料を駆使しながら、伝説や物語とは一線を画した等身大の光秀像を描く。

 

目次

第一章  明智光秀は美濃土岐明智氏出身なのか(木下聡)
第二章  明智光秀足利義昭細川藤孝(山田康弘)
第三章  明智光秀と近江(渡邊大門)
第四章  明智光秀と京都支配(秦野裕介)
第五章  明智光秀と信長配下の部将との関係──筒井順慶細川幽斎を中心に(片山正彦)
第六章  明智光秀丹波攻略(渡邊大門)
第七章  明智光秀丹波支配と国衆(福島克彦
第八章  明智光秀織田信長の四国政策(須藤茂樹)
第九章  天正九年六月二日付け明智光秀軍法(長屋隆幸)
第十章  明智光秀茶の湯(八尾嘉男)
第十一章 明智光秀連歌と教養(渡邊大門)
第十二章 本能寺の変の諸説を語る(千葉篤志
第十三章 本能寺の変後における明智光秀と朝廷(堺有宏)
第十四章 山崎合戦の性格(柴裕之)
 
 
 

後花園天皇の死後の内紛?般舟院のスペックが半端なくすごかった?

久しぶりの更新です。

 

昨日オンライン日本史講座で泉涌寺について話していたのですが、思いっきり参考にした久水俊和氏の『中世天皇葬礼史』(戎光祥出版、2020年)で般舟三昧院について書いてありました。

そこで久水氏は後花園天皇の仏事をめぐる般舟三昧院(はんじゅうざんまいいん)の動きと後光厳皇統・崇光皇統の綱引きなどを書いていらっしゃいました。他に後花園天皇が他の天皇と同じ深草北陵ではなく山国陵である理由についても考察していらっしゃいました。

 


中世天皇葬礼史 (戎光祥選書ソレイユ第7巻)

 

今回は般舟三昧院とその後身の般舟院(はんじゅういん)、後花園天皇の陵墓の問題、後光厳皇統と崇光皇統の綱引きについてご紹介します。

 

1 般舟三昧院について

とりあえずウィキペディアの記事を紹介します。

 

ja.wikipedia.org

天皇家の位牌などを管理していたお寺のようで、「御寺(みてら)」泉涌寺と並ぶ「もう一つの御寺」だったようです。

 

ただウィキペディアやその他「般舟院」でググると出てくるサイトを見ると、いささか残念なことになっているようです。

 

ちなみに私も行ったことがあります。

というのは近所に般舟院陵があり、そこが後花園天皇の分骨所となっているからです。

 

ウィキペディアにも書いてあることなので、繰り返すのも何ですが、一応本エントリで使うことを抜き出しておくと、「後土御門天皇の発願で伏見に作られた」ということです。

そして久水氏によると、般舟三昧院は崇光皇統のお寺ということです。伏見に作られている以上、それはそうだと私も思います。

一方泉涌寺や安楽光院は後光厳皇統の色が強く、この両者の間の綱引きがあった、ということです。

 

ではなぜ後土御門はわざわざ般舟三昧院を伏見の地に作って崇光皇統の拠点としたのでしょうか。

 

これは私は後土御門が崇光皇統としてのアイデンティティを持っていたからだ、と考えます。これは後花園が後光厳皇統としてのアイデンティティを終生持ち続けたことと対照的です。

 

2 崇光皇統と後光厳皇統の綱引き

後花園のアイデンティティが基本的に後光厳皇統にあることは久水氏や田村航氏が論じていらっしゃるところであり、私もそれに従いたいと思います。

 

さらに私は後光厳皇統としての後花園のアイデンティティと崇光皇統としての貞成のアイデンティティの衝突を、広橋兼郷の失脚に絡めて考察しました。

『研究論集 歴史と文化』第5号所収「後花園天皇貞成親王の関係についての基礎的考察」

アウトラインはこちらでも。

sengokukomonjo.hatenablog.com

要するに広橋兼郷が悲惨なことになったのは、兼郷が変人で罪をなすりつけやすいがために無実の罪をなすりつけられたわけでもなく、兼郷がデマを吹聴して後花園と貞成の仲をひきさこうという邪悪な陰謀を巡らせたわけでもなく、後光厳皇統の後花園と崇光皇統の貞成の争いのとばっちりを受けた、というものです。

 

光厳皇統と崇光皇統の対立というのは室町前半、応永年間においては非常に深刻な問題ではなかったか、というのが私の立場です。

 

室町時代の皇統の対立といえば後南朝の問題を代表とする大覚寺統持明院統の争いが真っ先に思い出されますが、応永年間も深まってきますと大覚寺統は後亀山皇統の小倉宮を除くと概ね室町幕府と後光厳皇統に恭順を誓うようになります。

光厳には皇子が多くいて、門跡の供給源ともなっていましたが、後円融・後小松は皇子が少なく、門跡の供給源は大覚寺統に移っていきます。大覚寺統は後光厳皇統に従っている限り安泰だったわけです。

 

一方、大覚寺統とは比べ物にならない近臣と経済的基盤を持ち、皇位への執念を隠さない崇光皇統は後光厳皇統にとっては脅威でした。

しかし称光天皇が没し、後光厳皇統の後継者が絶えた段階でどうしようもなくなった後小松は、崇光皇統の彦仁王を後光厳皇統の後継者とすることを条件に彦仁王による皇位継承を承諾します。これが後花園天皇です。

後花園が後光厳皇統を継承する、というためには貞成への太上天皇号を否定する必要があります。これは後小松がその遺詔で決定したことであり、他には後小松の死後、仙洞御所を貞成に引き渡してはいけない、などの項目がありました。義教は仙洞御所をあっさり貞成に引き渡しましたが、義教は後小松を憎悪していたので、明らかに後小松に対する嫌がらせです。

 

その割に貞成への太上天皇尊号宣下がスムーズに進まなかったのはなぜでしょうか。私は後花園本人が消極的だったから、と考えています。貞成の手紙が後花園への苛立ちに満ちているのはそのためです。従来この手紙を読むときには前半部分の後花園への訓戒にのみ注目されてきましたが、後半部分で「実の父母のことをもっと大事にしてほしい。今は我々のことを他人のように思っていらっしゃるのでしょう」というようなことを書いています。この書状に注目した研究者は多くいらっしゃいますが、なぜだか前半部分だけに言及して、後花園に学問の必要性を説く貞成スゲー!で終わっているのは不可解としたいいようがありません。

 

後花園は後光厳皇統であることを強く意識し、一方で貞成は崇光皇統をもりたてようとしていた、という仮定は、この書状の後半を見ればだいぶん明らかになると思います。

 

では般舟三昧院をなぜ後土御門は建立したのでしょうか。

 

3 般舟三昧院の建立事情

般舟三昧院は伏見に置かれています。伏見には崇光天皇光明天皇が眠る大光明寺陵があります。そうしたことから伏見は崇光皇統の根拠地です。後花園天皇の遺骨は山国荘の常照皇寺にある後山国陵(これは明治政府の都合で勝手に分けられただけであり、もともとは山国陵に光厳天皇とともに埋葬されていた)に入っていますが、大光明寺にも分骨されています。それを般舟三昧院建立後はそちらに移動しています。般舟三昧院は豊臣秀吉伏見城普請で現在地(京都市上京区今出川千本)に移転し現在は般舟院陵となっています。

 

久水氏によると、この分骨を推進したのは伏見宮家の重臣の庭田重賢であるようで、重賢は後花園にとっては従兄弟にあたります。

 

後花園の分骨の事情については、一つは後花園自身が貞常親王に宛てた書状で「伏見に帰りたい」ということを訴えており、それを果たした、と言えるでしょうが、もう一つは後光厳皇統と崇光皇統の綱引きという側面もあったのでしょう。

 

それでは後土御門はどちらだったのでしょうか。

現在の皇室の系図を見れば、後花園は崇光皇統として位置付けられているのがわかります。後小松の猶子とは書いてありません。しかし系図の中には後花園を後小松の猶子として記載し、註で「実は貞成親王の実子である」と記してあるものもあります。ということは、どこかで後花園を後光厳皇統から崇光皇統に位置付け直したことが伺えます。それはいつ行われたのでしょう。

 

これについては私案はいままでなかったのですが、現時点では後土御門が大きな役割を果たしているのではないか、という気がしています。

 

4 後花園の山国陵決定の事情

持明院統の本来の陵墓は深草北陵です。後深草以来伏見・後伏見・後光厳・後円融・後小松・称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成の十二人の天皇がここに眠っています。金がなくなったから一緒にしておけ!というものではもちろんありません。これは持明院統の正統の天皇たちです。

 

ではここに葬られていない天皇は誰か、という方が話が早いです。

 

花園→十楽院陵

光厳→山国陵

光明・崇光→大光明寺

後花園→後山国陵(事実上は山国陵)

 

つまり傍流の天皇深草北陵には入っていないのです。もう一つ、光厳と後花園です。彼らは傍流なのでしょうか?

 

私は違うと思います。

光厳が山国陵に入ったのは本人の遺詔です。彼は自らの意思で深草北陵に入るのを拒んだのです。光厳の過酷な運命にそれを求める見解が多数派ですが、私はそれも違う、と思っています。光厳深草北陵に入るのを拒み、丹波国の山国に葬られることを選んだのは、後光厳室町幕府に対する疎外感だったのではないか、と考えています。その意味では光厳は静かな場所を選んだ、とは言えるでしょう。

 

後花園が光厳の眠る山国陵を選んだのは、後世の史料では遺詔とありますが、おそらくその通りでしょう。先例に従えば深草北陵に入るべき人物であり、遺詔クラスの要因がなければそれを覆すのは容易ではありません。

ではなぜ後花園は光厳の眠る山国陵を自らの陵墓としたのでしょう。

乱世に翻弄された後花園が死後は静かに永遠の眠りにつきたかったからでしょうか。死後の後光厳皇統と崇光皇統の綱引きを回避したかったからでしょうか。

 

私はいずれも違うと考えています。

 

詳しくは現在執筆中の論文に譲りますが、大雑把な見通しを述べますと、後花園はその死の直前まで後南朝との戦いに邁進していました。南朝と戦った天皇といえば光厳でしょう。自らを南朝と戦った光厳になぞらえたのでしょう。もっとも光厳からすれば迷惑な話だったかもしれませんが。

 

いかがでしたか?

今は競売にかけられてしまって、現在は別の単立寺院に変わってしまった般舟院ですが、昔はすごかったんですね。何か残念な感じもします。後花園がなぜ山国陵に眠るのかについて、室町時代の皇統の争いについて調べてみました。

 

うまく収まってよかったですね!

それでは最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

 

民明書房刊『嘉吉の乱』のおしらせ(4月1日です)

四月一日恒例の行事です。民明書房から出版する著書のご案内です。
足利義教が赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱はかなり有名な戦乱で、その原因から結末まで結構はっきりわかっている。嘉吉の乱で出された後花園天皇の綸旨についても田村航氏や桃崎有一郎氏によって言及されている。何より森茂暁氏やさらには今谷明氏によってしばしば論じられ、桜井英治氏、石田晴男氏など多くの一般書も出されている。
 
本書では足利義教の人生を辿り、赤松満祐や細川持之などの大名や足利持氏との絡みはもちろんのこと、後花園天皇貞成親王後南朝の人々にとっての嘉吉の乱についても一段掘り下げて叙述した。
 
特に誤解されがちな足利義教の人生を、最新研究動向をもとに丁寧にたどり、彼がなぜ赤松満祐に殺されなければならなかったか、を解明する。しばしば「精神疾患」「人間性」に回帰されがちな彼のパーソナリティを丁寧に解きほぐしていきたい。例えば強引な家督継承をお気に入りの登用と評価されることも多いが、実際にはそれほど自分の都合のいい人物を押し込んだ、とは言い切れないことが多く、当時の家督継承の難しさをもう一度考え直す必要がある。
 
目次案
はしがき
第1章 足利義教の誕生
1 出家にいたる人生
2 青蓮院門跡として
3 兄との軋轢
4 義円を支えた人々
第2章 赤松満祐
1 赤松義則の子として
2 赤松家の抱える問題
3 春日部家と大河内家
4 赤松持貞事件
1 崇光皇統の没落
2 伏見宮家と後小松院政
3 転がり込んだ皇位
第4章 足利義教の政策
1 朝廷政策
2 裁判制度
3 関東および遠国政策
4 南朝政策
第5章 大名への家督介入
1 相次ぐ宿老の死
2 後花園天皇の自立
3 諸大名への家督介入
4 比叡山炎上
5 赤松満祐の鬱憤
第6章 嘉吉の乱
1 義教の「凶暴化」
3 守護大名の粛清
4 関東滅亡
5 将軍犬死
6 赤松討伐
7 嘉吉の徳政一揆
第7章 禁闕の変
1 護正院と護聖院宮
2 三種の神器奪われる!
3 三種の神器の奪還
4 赤松家の末路
 
民明書房以外で機会があればお知らせいただければありがたいです。一応新書レベルを想定しましたが、『民明人物シリーズ 足利義教』のような企画でもいけます。
 
ちなみに民明書房は『魁!男塾』に出てくる架空の出版社です。念の為。
 

室町時代の歴史2 応仁の乱

室町時代を中学受験生に教える時に南北朝時代の次はいきなり応仁の乱です。あとは勘合貿易倭寇です。応仁の乱については教え出すと常にややこしいのが応仁の乱の時の人間関係です。

具体的にいいますと、日野富子足利義尚足利義視と対立して最初は東軍:足利義視、西軍:日野富子足利義尚だったのが、逆転して東軍:日野富子足利義尚、西軍:足利義視となることです。

 

しかしこのややこしい話の元凶である日野富子暗躍説が学界で批判され始め、伊勢貞親による文正の政変の話を入れるととたんに分かりやすくなります。すでにゆうきまさみさんの『新九郎 奔る!』でも採用されていますが、応仁の乱でお困りの塾の先生方もこれを利用すればいいのではないでしょうか。ということで別ブログのリンクを貼っておきます。

 

yhatano.com

yhatano.com

ご笑覧ください。そして参考書の執筆の話などあればぜひお願いいたします。