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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

伊勢氏とはーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』は伊勢新九郎盛時を主人公としています。伊勢新九郎盛時は『北条早雲』として知られる人物です。出家後は早雲庵宗瑞と名乗り、「伊勢宗瑞」と呼ばれています。実際には「北条」を名乗ったのは彼の子の氏綱の代からで、彼自身は「北条早雲」と名乗ったことはありません。

 

彼は従来は永享四年(一四三二)生まれで永正十六年(一五一九)に享年八十八歳で死去とされ、活躍も老年に差し掛かってから、と大器晩成の人物のように思われてきましたが、永享四年については今日では叔父の伊勢貞藤の生年と混同している可能性が強いと考えられています。今日では康正二年(一四五六)生まれで享年は六十四歳と考えられています。

 

長らく「北条早雲」は下剋上の始まり、戦国大名の走りのような扱いを受けていましたが、近年では室町幕府の政所を支えた名門伊勢氏の庶流と見られています。

 

ゆうき氏の『新九郎、奔る!』は近年の研究動向を踏まえて若き「北条早雲」を描き出している漫画です。主人公伊勢新九郎盛時は、康正二年に伊勢氏庶流の備中伊勢氏のさらに庶流の伊勢備前守家に次男として生まれた、という設定です。父親の伊勢備前守盛定は伊勢氏宗家の伊勢貞国の娘の須磨と結婚し、須磨の兄の伊勢貞親の右腕として出世し、須磨との間に長男八郎貞興、長女伊都をもうけ、側室の浅茅(尾張国国人領主堀越公方の被官の横井掃部助時任の次女)との間に次男新九郎盛時、三男弥次郎をもうける、という設定です。ちなみに横井氏は北条時行の子孫を自称する家で、新九郎の子孫が北条を称するのもこの横井氏がらみという見解が有力です。

 

まずは新九郎の生まれた伊勢家とはどういう家なのか、見ておきたいと思います。

 

伊勢氏については第1巻77ページ、3巻の137ページ〜の「新左衛門、奔る!」で結構紹介されています。

 

伊勢氏の出自はよく分かっていません。伊勢平氏の流れを汲むとしていますが、詳細は不明というしかありません。とりあえず鎌倉時代末には足利氏の重臣の一人として上総国守護代を務めている記録があります。

 

康暦元年(天授五年・一三七九)に伊勢貞継が政所の執事となり、貞継以降の政所執事は代々伊勢氏の宗家が継承することとなります。

 

伊勢貞経が足利義教によって追放され、貞経の弟の貞国が政所執事に就任します。この貞国が貞親・須磨・貞藤の父です。そして盛定を引き立て、貞親の側近としています。

 

次の伊勢貞親は伊勢氏の中でもかなり有名な人物です。ちなみに定親は足利義政を幼少時から養育したような記述がしばしば見られますが、『新九郎、奔る!』5巻83ページに義政の台詞として「公家の邸で育てられた余に、武家のいろはから棟梁としての振る舞いまで教えてくれたのはそちだ」とあるように、実際は烏丸資任(からすまる・すけとう)の邸で育てられ、兄義勝の死後に畠山持国畠山義就の父)の仲介で貞親と義政の養育関係が決まったようです。

 

貞親は徳政一揆への対応で財政危機に瀕していた室町幕府を分一徳政令で建て直し、義政の信任を得て義政政権の中で大きな権力を掌握するようになりました。貞親のころにはそれまでは諸大名に分散していた各地の勢力との取次も伊勢氏に集中するようになり、伊勢氏の配下の活動が北東北でも見られます。

 

貞親は諸大名の家督にも介入し、義政政権の強化に尽力しますが、文正の政変で失脚、その後一旦は復活しますが、最後は再度の失脚を経て若狭国で死去します。この辺は『新九郎、奔る!』でも詳しく描かれています。

 

「天下の佞臣」とも呼ばれた人物ですが、作中では主人公の新九郎にも厳しくも優しい人物です。

 

貞宗は父貞親とは異なり、「天下の賢臣」と呼ばれ、人々の信頼を集めたと言われています。応仁の乱の収束や明応の政変に活躍し、幕府を延命した人物として知られています。作中では新九郎をしっかりと育成しています。

 

貞陸(さだみち)は作中では福寿丸として出てきます。明応の政変後には山城国守護を兼ね、山城の国一揆を制圧しています。

 

伊勢宗家は貞陸の子の貞忠の代に途絶え、伊勢貞藤の子孫から養子を迎えることとなります。

 

伊勢貞藤は貞国の次男で、貞親とは少し年齢差があります。伊勢氏は備中守を経て伊勢守になるのですが、一時備中守の官途は貞藤の義理の兄(姉の夫)の盛定が名乗っていました。

貞藤は新九郎の父という説もありましたが、『新九郎、奔る!』では新九郎の生母の浅茅の再婚相手となっています。

応仁の乱では西軍に属していたようで、その辺は本作でも描かれています。

 

伊勢貞職(いせ・さだもと)は貞藤の子です。本作では西軍の申次衆として登場します。新九郎が貞藤のもとにこっそりやってきて、山名宗全と碁を打つシーンがありますが、伊勢貞宗邸に戻ろうとする新九郎に対し「兵庫助殿(貞宗)に飼い殺しにされておると聞いたぞ」と新九郎の身の上を案じ「ここに住み着いたらどうだ?」と勧めています。

貞職の勧誘に対し新九郎が「私の帰りを待つ家来たちもいるのです」と断ると、そこに貞藤が出てきて「よくぞ申した、新九郎」「当主の覚悟をみせてもらったぞ!であるならば、二度とこのような危ないマネをするな」と釘を刺すシーンは貞藤の最高にかっこいいシーンです。

 

貞職の子の貞辰は足利義晴の申次衆となっていましたが、新九郎の子の北条氏綱鶴岡八幡宮を修理した時に義晴の使者として小田原に下向し、やがて自らと嫡男の八郎貞就は氏綱の家臣となり、次男の又三郎貞孝は伊勢宗家を継承することとなります。貞藤の子孫は伊勢備中守家として北条氏の評定衆を務めています。

 

貞孝は足利義晴政所執事として義晴政権を支えますが、義晴の子の義輝との関係が悪くなり、貞孝は三好長慶と組んで足利氏を見限ります。その後三好長慶足利義輝の連携に際しては六角義賢と組んだために義輝の京都制圧後には立場が悪化し、挙兵しますが松永久秀に討ち取られました。

 

貞孝の子の貞興は明智光秀に従い、山崎の合戦で奮戦、戦死します。その後の伊勢家は旗本として存続しました。

 

 

 


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今川義忠にみる戦国大名化の契機ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』第8巻の表紙は今川義忠です。

 


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今川家で最も有名な今川義元の祖父にあたり、北条早雲こと伊勢新九郎の義兄にあたります。今川義忠の突然の戦死とその後のお家騒動への関与が北条早雲こと伊勢新九郎の台頭のきっかけでした。

 

この今川義忠の時代に実は今川家の戦国大名化の契機があります。この辺を上手に『新九郎、奔る』第8巻では説明されています。

 

 

戦国大名」はそれまでの「守護大名」とどう違うのでしょうか。

 

戦国大名とは何か、という問いの答えはまだ統一したものはありませんが、最大公約数的に見れば、数郡から数国規模の広い領域を支配し、家中と国衆を支配し、朝廷や室町幕府という観念的な権威以外には服さず、独自の支配を打ち立てている、ということになるでしょう。

 

戦国大名には守護もしくは守護家の一族が守護としての権力をそのまま戦国大名化していったパターン、守護代もしくはその一族が守護を滅ぼし、あるいは傀儡化して実権を掌握するパターン、そして国人領主が実力で周辺の国人を従え、守護や守護代を滅ぼしたり傀儡化して権力を掌握するパターンがあります。

 

今川家・武田家・島津家・大友家などが第一のパターンに属します。少数派のイメージですが、意外と多く存在します。第二のパターンはかなり多く、有名なところでは織田家・朝倉家・尼子家・越後上杉家あたりが該当します。有名どころはここが多いと思います。第三の国人から台頭したパターンとしては毛利家・松平家・浅井家・長宗我部家・龍造寺家などがあります。大体十六世紀後半に台頭する家が多い気がします。

 

まずは今川義忠自身が戦国大名化への道を歩んでいるセリフを『新九郎、奔る!』の中から紹介します。

 

第8巻153ページからです。

場面は細川政元(聡明九郎)と山名政豊の和睦が成立したものの西軍の主流は戦意旺盛で、西軍の斯波義廉は越前奪還を狙って朝倉孝景に返り討ちにあったところです。そしてその知らせが駿府の今川義忠のもとまで届いたところです。

 

義忠「聞いたか、新五郎(範満)!斯波は義廉も義敏親子も越前のことで手一杯だ!双方とも浅倉ずれに圧迫されて青息吐息よ!!」「しかもだ!斯波は遠江守護代らしき者も置いておらぬ。仕置きする気がないとしか思えん!これは我らに「遠江を奪れ」と申しているようなものではないか!」

新五郎範満「さりとて、遠江守護はいまだ武衛家(斯波)のままでござる。力尽くで奪おうとすれば、どんなお叱りがあるか判りませぬ。」

義忠「案ずることはない。斯波に遠江を強める力がないことを見せつけてやれば京都は我らを追認する」

範満「それは楽天的すぎまする!」「遠江への出陣が避け得ぬものといたしましても御屋形様には分限を守った戦をしていただきたく存じまする」

義忠「新五郎、つまらぬ男だなあ、お主は」

 

少し遠江国と今川家について説明しますと、今川家は範国の代に駿河遠江の守護に任命されます。これは『逃げ上手の若君』のモチーフである中先代の乱北条時行諏訪頼重軍に今川軍は敗北し、今川頼国ら三人が戦死した代償でした。この辺は160ページで義忠が「駿河遠江は中先代の折、家祖範国公の三人の兄上が討ち死にして賜った二国ぞ」と言っています。

 

範国の子の範氏は駿河守護を継承し、もう一人の子の貞世は九州探題と安芸・備後守護を兼ね、さらに肥前筑前・肥後・豊前を探題領国として与えられました。貞世は九州を制圧しますが、独自の外交を朝鮮と行ったことなどから足利義満に警戒され、九州探題を解任され、駿河遠江半国守護とされます。さらに範氏の子の今川泰範の恨みを買って讒言され、大内義弘の起こした応永の乱に関与した疑いをかけられ、全てを失います。貞世の弟の仲秋と分け合っていた遠江は今川家の手を離れ、斯波武衛家に属することになります。貞世の子孫は遠江国に土着し、堀越(ほりこし)を名乗り、遠江今川家となります。貞世は出家後は了俊といい、そちらの名前の方が有名です。

 

149ページで伊都が新九郎に「普通の『太平記』じゃないんだって。今川了俊って方が書いた同人誌!」と言っていますが、この「同人誌」は『難太平記』と言われるものです。

 

今川了俊の子孫である堀越今川家の有名人としては169ページに出てくる堀越陸奥守(貞延)もいますが、何よりも「どうする、家康」の前半のヒロインである瀬名姫(築山殿)が有名でしょう。

 

今川義忠は実力で遠江を奪還する動きを開始し、幕府から懸革荘・河匂荘の代官に任命されたことを梃子に周辺を実力で切り従え、斯波氏の被官の狩野宮内少輔を討ち取って『新九郎、奔る!』では幕府の伊勢貞宗から「無茶苦茶だ!」と言われています(163ページ)。そして貞宗はそのことについて盛定と新九郎に愚痴りますが、新九郎から「いったい何があったのです?」と聞かれた貞宗に「前ページまでの解説を読め」と言われ、『ビッグコミックスピリッツ』を読んでいる新九郎と盛定が大声で「うっわぁぁぁ!」と叫んでいるシーンがあります。

 

遠江国の支配は堀越貞延に委ねられます。かつて遠江を支配した今川了俊の子孫としては当然、ということでしょうが、これは室町幕府の支配を逸脱した行為であり、幕府はそれを認めていません。幕府は斯波義廉重臣であった甲斐敏光(甲斐将久の子)を東軍に寝返らせ、遠江守護代とします。この結果遠江は斯波家の領国となりました。

 

義忠はその動きに従わず、堀越貞延は甲斐敏光の支配下に入った在国奉公衆の横地氏と勝田(かつまた)氏に襲撃されて戦死します。義忠は横地・勝田を討ち取り、守護代の甲斐敏光を追放します。幕府の権威に従わず、自力で遠江国に支配を貫徹します。作中ではその知らせを聞いた伊勢貞宗は「なんで!?」と呆気に取られた顔をし、「陸奥守(堀越貞延)は昨年広げた版図を国人たちに返還せよとの命に従わなかった。それを知ってか弔い合戦のつもりならば心得違い!上総介(義忠)は逆賊だ!!」と怒りを表明しています。このまま進めば義忠は幕府に反抗して自力で遠江国を切り取り、幕府にその実効支配を追認させる「戦国大名」として成長したかもしれません。

 

この義忠の動きは横地氏の残党によって義忠が戦死することで止まり、その後は堀越公方や扇谷上杉氏の支援を受けた今川新五郎範満が暫定的に家督を継承し、義忠の子の龍王丸はのちに幕府の支持もあって範満を打倒して家督につきますが、この龍王丸、のちの氏親によって遠江国は今川氏の版図に入り、氏親とその補佐役となった新九郎によって今川氏は戦国大名化を成し遂げます。さらに新九郎の子孫は南関東を自力で制圧し、戦国大名の典型とも言われる体制を作り上げます。

 

そのような戦国大名化を進める義忠に対して新五郎はあくまでも幕府の権威を守ろうと作中ではしています。そのような新五郎の真面目さを義忠は「つまらぬ男」と評しています。

足利政知ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』の登場人物の解説を行っています。今回は足利政知です。

 

足利政知は『新九郎、奔る!』126ページに初登場します。新九郎が文明五年に駿河国に義忠嫡男誕生の挨拶に行ったエピソードの中です。ちなみにこれはフィクションです。新九郎の駿河行きは文明八年と長享元年の二度というのが通説で、黒田基樹氏は一度と考えています。

 

今川家の中では遠江国に野望を燃やす義忠と、関東に関与すべきという今川範満の対立があり、範満は関東びいきを増やそうと新九郎を堀越(ほりごえ)へと誘います。それに対し義忠は「旗さえあれば堀越様は木彫りの人形でもかまわんのじゃないかな」と言い放ち、「堀越様にはあまり肩入れせぬことだ」とアドバイス、新九郎の姉の伊都は「新五郎殿は関東びいきを増やそうとしてるの」とアドバイスしています。

 

その堀越公方足利政知については127ページからしばらく説明があり、その後新九郎との対面の様子が描かれますが、ある意味屈折した人物です。新九郎も「しかし何か疲れ果てておられるような」と思い、新五郎範満には「うっぷんのようなものがたまっておられる感じはしました」と漏らしています。新五郎からは「京からはるばる客人がみえたのがよほど嬉しかったと見える。お顔が晴れ晴れしてござった」と言われ、「あれで晴れ晴れか」と考えています。

 

足利政知足利義教の四男にあたります。兄には七代将軍の足利義勝、小松谷長老の義永がおり、夭逝した同母の兄もいます。義教は十一男五女をもうけますが、短命な人が多く、応仁の乱が始まった段階で生存していたのは義政・政知・義視の三人だけでした。

政知は天竜寺の塔頭である香厳院院主となり、禅僧として育ちますが、関東公方足利成氏関東管領上杉憲忠を殺害したことに端を発した享徳の乱に際して足利成氏に代わる関東公方に抜擢され、弟の義政の一字(偏諱)を拝領して政知と名乗り、伊豆国に下向します。

 

政知の補佐役として渋川義鏡(よしあき)と上杉教朝(かつて足利持氏に叛いた上杉禅秀の子)がつけられますが、彼らには守護職がなく、軍事力に課題を残していました。

 

そこで遠江国(越前・尾張)の守護であった斯波義敏に出兵を命じますが、義敏は重臣の甲斐将久(ゆきひさ)と対立し、越前に将久討伐のために出兵、義政の怒りを買って追放され、甲斐敏光・朝倉孝景らが派遣され、政知は彼らをバックに鎌倉入りを目指しますが、上杉氏と堀越公方が結びつくことを恐れた室町幕府は政知を制止、政知は伊豆から動けないままとなります。この辺の経緯は140ページで新五郎範満が新九郎に語っています。新九郎はそれを聞いて「それは・・・くさるかもしれない」と複雑な表情をしています。

 

義政は堀越公方の軍事力整備のために斯波義敏と松王丸を追放し、新たに渋川義鏡の子の義廉を斯波氏家督に据えますが、義鏡が扇谷上杉持朝と対立、義鏡は失脚の憂き目に遭い、義廉と義敏の対立は応仁の乱の一因ともなります。

 

政知は伊豆国堀越から動くことはなく、軍事力としては駿河東の国人衆の力を借りつつ、名目上は成氏と対抗する存在として置かれ、『新九郎、奔る!』第8巻を迎えます。

 

享徳の乱長尾景春の乱をきっかけに急速に和睦に向かい、都鄙合体が成し遂げられ、関東公方古河公方堀越公方の二本立てとなりますが、堀越公方伊豆国一国のみを支配する小勢力とされ、政知は都鄙合体を進めた山内・扇谷両上杉氏に不満を抱くようになり、政知の執事を務めた上杉政憲を自害に追い込み、それまで手を組んできた今川範満を切り捨てて室町公方及びその尖兵となった新九郎を支援、新九郎を奉公衆に迎えます。

 

また政知には男子が三人いましたが、嫡男の茶々丸を廃嫡、次男の清晃を天竜寺香厳院院主に、そして三男の潤童子堀越公方の後継者と定めます。

 

144ページに猫と遊ぶ政知の隣に政知の御曹司らしい子どもが見えますが、これは茶々丸か清晃か潤童子か、いずれにしても彼らの人生は波乱の人生となります。

 

猫と戯れる政知と政知の子ののどかな様子に新五郎範満の「会うてお理解りになったと思いますが、公方様(政知)は我らが支えねば戦などできるお方ではござらぬ」という説明がオーバーラップされ、政知の現状が哀しいほどに映し出されています。

 

清晃、後の足利義晴の子孫がこの後の室町将軍を継ぐことになります。義晴・義輝・義栄・義昭はいずれも政知の子孫です。

 


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上杉定正ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』の登場人物で、割と伊勢九郎盛頼(新九郎の従兄)が好きなのですが、もう一人、大変気になっている人物がいます。

 

 

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それは上杉五郎定正です。

 

初登場は第1巻の167頁ですが、ここでは上杉定正という描写はありません。上杉龍若(後の上杉顕定)が関東管領候補者として越後上杉氏から養子にやってきたのを出迎える関東のお歴々の一人として並んでいます。長尾景春・寺尾礼春・長尾忠景が右のコマに、左のコマには手前から太田資長太田道灌)・上杉定正・太田道真・上杉政真が見えます。

 

はっきり名前が出てくるのは第6巻103ページで、太田資長の陣に顔を出した定正が資長を呼び出し、愚痴りはじめます。

定正「ちょっといいか?孫四郎(長尾景春)の機嫌が悪いようだ」「四郎殿(上杉顕定)はあれか?孫四郎が嫌いなのか?」

資長「関東管領を「四郎殿」などとお呼びなさるな。五郎殿こそ顕定様に対して何か御不満がありそうですな。」

定正「あいつはそもそもあれだ」「若い者を信用してないんじゃないのか?」

資長「「あいつ」とか言わない。」

 

ちなみに両者は連れションをしながら会話しています。ほのぼのとする会話です。資長は40歳、定正は26歳。

 

次に両者の絡みが見られるのは8巻47ページ。

上杉方の事実上の最高司令官であった長尾景信が病死したあとのシーンです。

 

定正「我ら扇谷家とは衝突することもあったが立派な大将だったな。」

資長「うい。人望がありましたな。」

(二人階段を降りながら)

資長「戦はそれがしのほうが上手いのですがな」

定正「お主それあまり人前で言うなよ。」

 

この両者の「その後」を知っている人はこの二つが見事な伏線になっていることに気付かされます。

 

そして同書66ページから両者の関係に大きな変化をもたらす事態が訪れます。

 

武蔵国五十子(いかつこ)陣に攻め寄せる足利成氏軍とそれを防戦する関東管領軍、関東管領軍は長尾景信病死の影響で動揺が治らない中での防戦で苦戦しています。

 

陣頭で指揮を執る資長の元に定正が慌てた様子でやってきます。

 

定正「六佐(資長)!」「政真の姿が見えん。見かけなかったか?」

資長「御当主が?本陣におられぬのか。」

そこに政真の戦死の報せがきます。

定正「あのバカは何をやっているんだ!!」

資長「五郎殿(定正)はここを離れてはなりませぬ!!」

定正「甥が死んだのだぞ!俺が行ってやらねば!」

しかしそれを制して資長は「駆け回るはこの六佐の役目ですぞ」というと戦闘に書き駆け出します。結局資長らの奮戦で古河軍は引き上げます。

その晩、長尾景春上杉定正太田資長が焚き火を囲んで話し合っています。

 

景春「ここだけの話だがな、忠景叔父に親父(景信)の代わりは務まらんよ。」

定正「お主はそれが態度に出るからいかん。それではいつまで経っても家宰職に就かせてもらえんぞ。」

資長「孫四郎殿の心配をしている場合ではござらぬぞ、五郎殿。扇谷家の家督をどうするか、考えねばなりませぬ。」

定正「うちもどこからか養子でも迎えるか」

景春・資長「何を言ってるんだお主っ!!」

定正「え?」

資長「あいや失敬!」

資長「扇谷家には政真様の叔父御が何人も残っておるのですぞ!しかもその中に現状の五十子大西に即応できる方が一人おられる!」

定正「!」「俺か!」

資長「五郎殿、扇谷上杉を背負って立ってもらいますぞ」

 

この二人のその後を知っていれば、これが悲劇の始まりであることは容易に理解できます。

 

庶子の気楽な立場で、資長にも言いたいように言わせていた定正ですが、自らが当主となるとその行為の端々に自分を見下しているかのような資長に我慢ができなくなってしまいそうです。そして資長は別に人を見下したりしているわけではなく、強烈な自負心がそのままナチュラルに出てくるタイプのようです。この仲良さそうな二人は、定正が資長を殺害するという悲劇的な結末を迎えます。そして資長の死が新九郎と伊都の運命を大きく前進させることになります。

 

本ではなく雑誌で最新話をご覧の方はお分かりでしょうが、資長(出家して道灌)と新九郎は丁々発止のやりとりをしますが、最後はいかにも道灌らしい言動で締め括られます。

 

定正は道灌を殺害したために苦戦しますが、定正を助けたのは新九郎でした。また新九郎も足利茶々丸攻撃の際には定正の協力を得ていたようです。

 

少しとぼけた定正の活躍には今後も期待したいと思います。

 

 


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伊勢盛頼と今川氏の揉め事ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

伊勢盛頼ー新九郎の従兄であり、東西に分けられた荏原郷の権益をめぐるライバルであり、京都で生まれ育って在地での経験の全くない新九郎のよき指導者ともなる人物です。なかなかいい味を出しており、私は結構好きな登場人物です。

 

第6巻83ページでは在地の厳しい現状を新九郎にアドバイスしています。

 


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那須修理亮家と伊勢掃部助家は領地争いを引き起こしますが、京兆家内衆で新九郎の知り合いであった庄元資の仲介で和解します。その時に揉め事の発端となったという「下人」が那須方より差し出され、伊勢家がその「下人」を処刑しますが、処刑後盛頼がぼやきはじめます。

 

盛頼「いくら地侍の下人と言っても あんなみすぼらしい下人があるか。あの場では言わなかったがな。」

新九郎「え?ではあの解死人は・・・沼之井十郎(争いの原因となった地侍)の下人ではないと?」

盛頼「身代わりだよ。おおかた那須は他国からの流人でも捕らえて飼っていたんだろうよ。」

新九郎「では本人が何をしたというわけでもないのに首をはねられたのか。哀れなものだな。」

平井安芸守(備前守家家臣)「お情けもよろしいが、諍いが大きうなれば、誰かが死なねば収まりません。ああいう者が必要になります。」

盛頼「そういうことだ。ああいうのを用意しておかぬと、つまらぬ諍い事で忠義の家来や下人を相手に差し出すことになるぞ」

なんとなく浮かない顔の新九郎

 

在地の厳しさを思い知る新九郎ですが、ここでの経験(他に笠原美作守から「水泥棒と疑われただけで、人の形がなくなるほどに打ち殺されまする。」と言われ、「それほどまでか。」と緊張して「ゴク」と喉を鳴らしています(第7巻30ページ)。

 

日々しっかりした在地領主として先輩方に鍛えられ(父伊勢盛定やもう一人の従兄の伊勢貞宗は完全に幕臣で在京ですから領地経営に携わることはありません)、立派な北条早雲を目指して成長中の伊勢新九郎ですが、彼のもう一つの活躍の場が今川家です。姉の伊都の嫁ぎ先ですが、第8巻の最後で今川義忠に矢が当たり、事態は急展開し始めます。

 

以前に伊勢盛定(伊勢備前入道正鎮)が鎧を売却した話をアップしました。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

同じ『政所賦銘引付(まんどころくばりめいひきつけ)』文明十年(一四七八)十月二十七日に次のような話があります。

 

伊勢掃部助盛頼 十 廿七(十月二十七日)

今川上総介の雑掌の妙音寺法音僧の借金九十貫文の事、法音が死去したので相続した弟子が返済するように下知した

 

今川上総介はこの二年前に戦死した今川義忠、雑掌というのは在京の雑掌のこと、つまり今川家京都事務所のようなものです。

 

どうやら盛頼は今川上総介関係者に九十貫文(ざっくり900万円)もの大金を貸していたようで、その担当者が死去し、相続が発生した段階で貸し倒れを警戒して融資を引き上げた、というところでしょうか。

 

このころ今川義忠正室の北川殿と嫡男の龍王丸(氏親)は京都に逃れていた、とも考えられており、今川上総介家(とその外戚の伊勢備前守家)は出費が嵩んでいたのかもしれません。それで伊勢掃部助盛頼が助け舟を出していたものの、融資を引き上げ、盛頼の訴えを受けた政所執事貞宗もやむなし、と盛頼の債権回収を認めたのでしょう。

 

8巻の64ページでは盛頼と新九郎が金貸しの丁子屋で出会うシーンがあります。伏線になるのかならないのかは分かりませんが、当分は盛頼の活躍が見られそうで、すっかり盛頼ファンになってしまった私としては盛頼の活躍がますます楽しみです。

 


今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)

 


今川氏親と伊勢宗瑞 戦国大名誕生の条件 [ 黒田 基樹 ]

 

 

伊勢盛時(北条早雲)初出文書ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

北条早雲こと伊勢新九郎盛時の初出文書です。

井原市の文化財・偉人・伝統芸能・昔ばなし

 

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平盛時禁制(岡山県井原市法泉寺蔵)Copyright2017 Ibara City Office. All rights reserved.

 

この文書は『新九郎、奔る!』第6巻40ページに出てきます。翻刻(くずし字を活字にすること)は同書39ページにあります。

 


新九郎、奔る!(6) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(6) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 

おそらくこの文書は昔から知られていたようですが、北条早雲の実名(じつみょう)は「長氏」と言われていたため、この「平盛時」が備中伊勢氏の関係者であることは分かっていてもなかなかそれが北条早雲とは思われなかった、というのがあると思います。

 

花押がいわゆる「足利様」であることが目を引きます。後年の伊勢宗瑞時代の花押は全く違う形です。これは彼が幕府奉公衆ではなくなったことと関係があるかもしれません。

 

一応翻刻と現代語訳は上記『新九郎、奔る!』にありますので、こちらでは読み下しをつけておきます。

 

禁制 長谷法泉寺

一 甲乙人等乱入狼藉の事

一 山中の榜示の内の竹木を切る事

一 寺辺において殺生を致す事

右の条々堅く禁制せしむる事

もし成敗に背くの輩においては罪科に処すべきなり。仍って状件の如し

 

字もそれほど崩れておらず、非常に読みやすい文書ではありますが、第二条(一の二つ目)の「榜示」の「示」が「尓(爾)」という当て字が使われている事、第三条の「辺」が旧字の「邊」となっている事、「背」と「輩」(ともがら)の上の部分がかなり省略されていること、「処」が「處」のくずし字であることを理解すればそれほど難しい文書でもありません。

 

 

 

 

 

伊勢九郎盛頼ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』の荏原編で重要な役割を果たす人物が新九郎の従兄弟の伊勢九郎盛頼です。伊勢盛定の兄の伊勢掃部助盛景の子で、家督相続後は盛頼が「掃部助」の官途を名乗っています。

 

伊勢盛景と伊勢盛定は確執があったようで、『新九郎、奔る!』では第3巻の「外伝 新左衛門、励む!」で詳細に記されています。レポートやら何やらで詳しい出典をお望みの方には『蔭涼軒日録』文明十七年(一四八五)十一月二十五日条にその話が出ております。

 

伊勢掃部助家は備中国祥雲寺ともめていました。どうやら文明五年(一四七三)に掃部助盛頼が幕府からの命令を受けたと称して祥雲寺の権益を侵害し、祥雲寺の住持である珠徹(盛景・盛定弟)が伊勢貞宗に訴えてきたと文明十七年九月三日条の後ろの方にあります。

 

ちなみに珠徹は第6巻118ページに「祥雲寺住持珠徹殿 御到着!」とあり、132ページに「京に行った折には兄盛定が面倒を見てくれての・・・あ、空けられよ 空けられよ」といっている僧侶が珠徹だと思われます。この辺はウィキペディアの「新九郎、奔る!」の項目を参考にしました。

新九郎、奔る! - Wikipedia

 

同年十一月十一日条では伊勢掃部助と祥雲寺の言い分が異なることが指摘され、伊勢掃部助がその奉書案を提出しています。

 

そして十一月二十五日に伊勢新九郎が証人として呼ばれています。新九郎と掃部助の曽祖父因幡入道(伊勢盛久)が祥雲寺を建立し、祖父(伊勢盛綱)の代に荏原郷を兄弟(盛景と盛定)に分割し(この経緯は「新左衛門、励む!」に詳細が描かれている)いると述べ、掃部助も新九郎も祥雲寺には一切関わることができない、それゆえ掃部助の言い分はおかしい、と新九郎は証言しています。いかにも筋を通したがる新九郎らしい言い分ですが、これはあくまでも『蔭涼軒日録』に描かれた若き新九郎の姿です。

そして『新九郎、奔る!』でもそのような人物として新九郎が描かれています。この部分の描写がどのようになるのか、大変楽しみです。

 

盛頼は第4巻28ページに出てきます。「向こうで新九郎を出迎え、荏原の主が誰なのか思い知らせてやりますよ」という台詞を吐いて不敵な表情です。

 

第5巻で叔父の政所珠厳が新九郎を暗殺しようとした計画を利用して盛頼は政所に兵を入れ、珠厳の不正を正しますがそれをきっかけに両者は何となく親しくなっていきます。

 

第6巻13ページでは盛頼が新九郎に説教をしています。

「京にいながらにして命じさえすれば年貢が勝手にやってくるとお主ら親子は思っているのかもしれんがな、大きな心得違いだぞ。ここでは田畑の畦ひとつ、米や麦の一粒から銭の一枚に至るまで、領民の血と汗でできておるのだ」「備前守殿(盛定)もお主もそれが理解っておらん!」

 

この盛頼の説教は新九郎には聞いたようです。新九郎は恥辱と憤怒に満ちた顔をしていますが、彼と彼の子孫である後北条氏の民政を見れば、この時の盛頼の発言は彼の人生に大きな影響を与えるものと思われます。18ページでは「九郎殿(盛頼)の言にも一理ありますから出直します」と笠原美作守や平井安芸守に語っています。そして「あの甘ちゃん小僧が御領主様かよ・・・せいぜい揉まれるんだな」と盛頼は心の中で思っています。

 

その後はいろいろあって盛頼は新九郎の想い女であるつる(備中那須氏の女性で男勝りの桀女)を側室に迎え、『新九郎、奔る!』も新たな舞台に移ります(第6巻〜第7巻)。

 

第8巻の冒頭で伊勢貞親が死亡し、その法要のために伊勢一門が京都に集まることになりましたが、盛頼が「こんなところで遊んでいいのかぁ?上洛せんのかぁ!?」と新九郎に声をかけます。「土産物を拾い集めてくる」「俺の留守中、つるに手を出すなよ。」と言い残して盛頼は上洛しますが、その「土産」が荏原での権限拡大と知り、新九郎も慌てて上洛しようとして大道寺太郎に「いきなり急がすな?」と突っ込まれています。「掃部助殿に遅れを取りたくないのだ」と新九郎は話しており、盛頼へのライバル心は健在です。

 

これが文明五年の出来事として描かれていますので、この時に盛頼は祥雲寺の寺領への介入を許可する奉書を入手した、という設定になるでしょう。

 

8巻の64ページでも京都で偶然出会って新九郎にいろいろとアドバイスをするよき先輩といった風情となっていて、今後もしばらくは活躍が期待できそうな人物です。

 

ちなみに今回大学院時代に購入した『蔭涼軒日録』を久しぶりに本棚から出していろいろと引っ張り回しました。

 

 


新九郎、奔る!(3) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(4) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(5) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(6) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス)

 

 

 


新九郎、奔る!(3) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(4) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(5) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(6) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]