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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教

ハイホー!7dと足利義教

ハイホー!7d、と言っても分かっていただけない方が多いと思います。ディズニージュニアで放映している「白雪姫と七人の小人たち」のスピンオフ番組です。若き七人の小人たちがしあわせ女王様を魔法使いのヒルディ・グリム夫妻から守る、という話です。 『…

室町将軍家御教書(『朽木家古文書』62 国立公文書館)

『朽木家古文書』62です。 とりあえず写真を。 室町将軍家御教書 朽木家古文書 国立公文書館 釈文 若州發向事不日可被 致忠節之由所被仰下也 仍執達如件 嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押) 佐々木朽木満若殿 一行目の一番下の「被」と二行目下から四字…

後花園天皇をめぐる人々−細川持之、後花園天皇綸旨発給の決断

嘉吉の乱で足利義教が弑殺され、細川持之が幕政を掌握することになりましたが、持之の優柔不断、無能ぶりが強調され、綸旨を出して嘉吉の乱を終わらせた後花園天皇の引き立て役になっている、というイメージがあります。 sengokukomonjo.hatenablog.com しか…

後花園天皇をめぐる人々−細川持之、嘉吉の乱に翻弄された悲運の管領

2022年1月20日に少し追記。 久しぶりの「後花園天皇をめぐる人々」です。 今日取り上げるのは「決められない政治」の象徴と某公共放送でレッテルを貼られてしまった細川持之です。これは某公共放送だけでなく、多くの先学がそう行っているので、通説…

足利義教と後花園天皇のどちらが上だったのか

久しぶりの歴史雑記帳です。令和改元便乗企画である後花園天皇の改元が終わりましたので、平常運転で「後花園天皇ノート」をはじめとした「歴史雑記帳」をお送りいたします。 表題の「足利義教と後花園天皇のどちらが上だったのか」という問題ですが、一言で…

オンライン日本史講座5月第3回「江戸後期の天皇」予告1光格天皇登場

後桃園天皇の急死により皇位継承者がいなくなりました。 皇位継承者がいなくなって慌てるのは意外と多いということが、天皇の歴史を追いかけているとわかります。 武烈天皇から継体天皇、称徳天皇から光仁天皇、四条天皇から後嵯峨天皇、称光天皇から後花園…

後花園天皇宸翰消と足利義教自筆御内書2

前回見てきました後花園天皇宸翰消息および足利義教自筆御教書(熱田神宮宝物館所蔵)の解説です。 前回のエントリはこちらになります。 sengokukomonjo.hatenablog.com これについては『看聞日記』永享五年十二月十二日条にいろいろ書いてあります。 十二日…

後花園天皇宸翰消息と足利義教自筆御内書

熱田神宮所蔵の後花園天皇宸翰消息と足利義教自筆御内書を見に行ってきました! その感想について述べてみます! 現物の写真は下記のサイトで見ることができます。 www.atsutajingu.or.jp まずは後花園天皇宸翰消息から見ていきます。画像はリンク先をご覧く…

伏見宮家に伝わった鮭昆布公事について−『青森県史資料編中世4』の誤ち

追記:引用文中「直明王」が「直明ラオウ」になっていましたので訂正しました。「直明ラオウ」ってんなんだよ。直明王は義教に所領没収された時に「我が人生に一片の悔いなし」と叫んだことからそう呼ばれている(嘘松) 『青森県史』は個人的には非常に素晴…

後花園天皇と同世代の人たち

今年(2019年)は後花園天皇の生誕600年です。ごく一部の後花園天皇ファン以外にはどうでも良い情報ですが、生誕600年です。 1419年生誕ということは、応永の外寇の年です。 彼らの同時代にどういう人がいるのか、ということを調べてみました…

『看聞日記』における足利義教ディスについて5

今回は最終回の「将軍犬死」です。嘉吉元年六月二十五日条です。 これ、長いので一部だけの引用にとどめます。 所詮赤松可被討御企露顕之間、遮而討申云々。自業自得果無力事歟。将軍如此犬死、古来不聞其例事也。 これ、私なりの訳をつけるとこうなります。…

『看聞日記』における足利義教ディスについて4

永享九年十一月六日条です。そこでは「悪将軍」という表現が見えます。では前後関係を見てみましょう。 六日、晴、聞。室町殿祗候女中、東御方〈玉川殿御女〉小弁不調事露顕。両人可流罪云々。小弁者被糺問白状申。相国寺僧又行道等密通云々。仍彼等忽被勿首…

『看聞日記』における足利義教ディスについて3

今回は「履薄氷之儀恐怖千万」です。永享九年二月九日です。 原文を挙げておきましょう。 公方三条へ渡御。仍棰三荷、鯉一喉、菱食一遣之。毎度為佳例遣之。西芳寺坊主参。御茶〈廿〉献之。対面給扇。康富参。御読書如例。抑東御方三条へ御共被参。御雑談之…

『看聞日記』における足利義教ディスについて2

『看聞日記』には足利義教の暴政が数多く残されています。貞成親王は義教には散々お世話になっているはずですが、しっかり書かれています。 今日はそのうち「万人恐怖」を取り上げたいと思います。 この言葉が発せられたのは永享七年二月八日条です。原文を…

『看聞日記』における足利義教ディスについて1

意外と人気の高い『看聞日記』。荒ぶる足利義教をしっかりと描いているので義教ファンにとって最高の書物です。満済の『満済准后日記』もあるのですが、なんせ義教は満済の前ではおとなしいですから。また満済もオブラートに包む名人で、なかなか本音を出し…

相応院新宮のこと

『看聞日記』に「相応院新宮」という皇族が出てきます。「南方上野宮御子」と割注がついています。永享五年十二月二十日条です。 相応院新宮〈南方上野宮御子〉、自公方侍所ニ被仰付搦申。門主ハ御室ヘ被入申。其間ニ侍所門跡ヘ参取申懸縄云々。御形儀悪物之…

称光天皇の重病に際しての後小松上皇と足利義教の交渉

称光天皇が重病に陥ったのは正長元年七月六日の夕方です。万が一のこともある、と典薬頭の丹波幸基(『満済准后日記』では「行基」)が報告しています。八日には小倉宮(後亀山天皇皇孫)が逐電しました。十一日には管領畠山満家が義教の意向を満済の下に持…

常盤井宮恒興王への親王宣下

宝徳元年十月二十三日、『康富記』には次のような記載があります。 今夜法親王宣下也。勧修寺宮令蒙此宣給。太上法皇之御養子也。実者常磐井宮御子也。元令任大僧都給云々 彼は諱を恒興といい、1431年に直明王の第二王子として生まれ、1509年に遷化…

後花園天皇、やってしまいかける

永享十年のことです。 足利義教が桜の枝を後花園天皇に献上しました。 後花園天皇はそれに対して「御製」(天皇自作の和歌)を贈ります。 すゑとおき 八百万代の 春かけて 共にかざしの はなをみるかな それに対して義教からは次の二首が返ってきました。 す…

後花園天皇をめぐる人々ー足利義教

後花園天皇をめぐる人々、今回は足利義教です。 言わずとも知られた籤引き将軍。このくじ引きについてはヤラセ説も根強いですが、多数説はヤラセではないとされています。私も多数説に従いたいと思います。 足利義満の五男として生まれています。生母は足利…

後花園天皇をめぐる人々ー東御方

厳密に言えばこの人は後花園天皇に直接深く関わった人ではありません。幼少期に彼の面倒を見ることはあったにせよ、伏見宮家の先代の栄仁親王の妻の一人で、王子を生んでいます。 三条実継の娘です。実継のひいひい孫が実雅と尹子なので、一応足利義教とも関…

生首が届いたら−後花園天皇の政治責任

いきなり物騒ですみません。 生首が届けられた時の反応について見て見ました。 永享五年九月十四日のことです。 大外記をつとめた中原師郷の日記『師郷記』の記述です。 今日九州賊首被御覧之。去月十六日・十九日両度合戦、大内討少弐父子三人云々。 大内持…

羽賀寺縁起に後花園天皇が出てくる理由について

中世北方史をやっている研究者にとって一番目にする天皇は後花園天皇でしょう。というよりも後花園天皇以外の天皇を目にすることはほぼないと言って過言ではありません。 『東日流外三郡誌』にも出てきます。『北部御陣日記』にも出てきます。これらは以前ネ…

伏見宮貞成親王の御所に足利義教が訪れた話

永享二年十二月二十日、足利義教が伏見宮貞成親王の元を訪ねました。 伏見宮貞成親王は後花園天皇の父親です。しかし後花園天皇は院政を敷いている後小松上皇の養子ということで皇位を継承しているので、貞成親王は天皇の父親という扱いは受けていません。宮…

後花園天皇は鮭がお嫌いのようです

追記 この記事については論文にしています。『研究論集 歴史と文化』第4号、2019年6月刊です。図書館に入れるようにお願いしたら却下されましたので、図書館にはありません( ;∀;) 下記で入手できます。 historyandculture.jimdofree.com 後花園天皇…

嘉吉の乱の治罰綸旨の起草案を完全に書き換える後花園天皇

後花園天皇が嘉吉の乱で赤松満祐治罰綸旨を出したことは、ごくごく一部の歴史愛好者の間では有名です。 赤松満祐はいろいろあって足利義教を暗殺したわけです。ちなみに現場は二条城の向かい側、堀川通の東側です。そこから満祐は義教の首を持って、丹波口か…

琉球宛の「御内書」

弘前大学の関根達人先生から反応をいただいたので、琉球と室町幕府の関係について、少し見ていきたいと思います。 現在残存している日本国王→琉球国王宛文書は四通です。ちなみに日本国王は「室町殿」、琉球国王は「世の主」と呼ばれていました。 最初の一通…