琉球宛の「御内書」
弘前大学の関根達人先生から反応をいただいたので、琉球と室町幕府の関係について、少し見ていきたいと思います。
現在残存している日本国王→琉球国王宛文書は四通です。ちなみに日本国王は「室町殿」、琉球国王は「世の主」と呼ばれていました。
最初の一通は『運歩色葉集』収載の足利義持→尚思紹宛の文書です。
御文くハしく見申候。しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ
応永廿一年十一月廿五日
で、封筒には「りうきう国乃よのぬしへ」とあって印章が捺されていることが示されています。
二通目は『後鑑』および「御内書案 応永以来永正」と題された天理大学『大館記』所収の足利義教→尚巴志宛の文書です。これの写しが国立公文書館に所蔵されています。ここでは権利関係の問題から国立公文書館のものを示します。
このページの変わり目のところです。
翻刻します。
御ふミくハしく見申候。進物ともたしかに
うけとり候ぬ。めてたく候。まいねんふねをも
人をもあまたわたさるへく候
永享八年九月十五日
りうきう国のよのぬしへ
三つ目は『続群書類従』所収の「御内書引付 天文二三廿四貞忠御調進案」に収載された足利義教→尚巴志宛の文書です。国立公文書館所蔵「御内書案坤」前半部にも同じものが収載されています。
前から二行目以降ですが、最初には書状の形式について述べられていますので、本文は以下の通りになります。
文くハしく見申候。しん上の物たしか
にうけとり候ぬ。めてたく候
永享十一年三月七日 御印判
りうきう国のよのぬしへ
最後は足利義晴→尚清宛です。この年の一月に尚真が死去してますが、それを義晴が知っているかどうかは疑わしいし、文言から考えれば尚真宛であったと思われます。そもそも室町幕府がそこまで琉球の内情に当時詳しいとは思われません。『改定史籍集覧』所収「室町家御内書案」下の中の「御内書 大永享禄天文中」というものの中に入っています。
御ふみくハしく見申候。進上の物ともたしかにうけとり候ぬ。又この国と東羅国とわよの事申とゝのへられ候。めてたく候。
大永七年七月廿四日 御判在之
りうきう国のよのぬしへ
「この国と東羅国とわよの事申とゝのへられ」についてはこの解説部分に「一番の御文言ハから日本のわよをりうきうよりあつかひにつき候てかくの分候」とあります。これから考えると寧波の乱の尻拭いを琉球に頼んでいたことがわかります。
では琉球→日本宛の文書はどうなっていたでしょう。
これは「御内書案 応永以来永正」に収載されています。
最後の文書です。「従琉球国書云」とあって本文が続きます。
畏言上
毎年為御礼、令啓上候間、如形捧折紙候、随而
毎年進上仕候両船、未下向仕候之間、無御心元存候。
以上意目出度帰嶋仕候者、所仰候諸事御奉行所へ
申入候。定可有言上候。誠恐誠惶敬白
応永廿七年五月六日 代主 印
進上 御奉行所 「十月到来」
一連の文書のやり取りを見て気づくのは、室町殿が上から目線で臨み、一方琉球世の主は直接室町殿に宛てず、「御奉行所」に宛てているなど、へりくだった姿勢であることです。ここから明らかなのは、日本国王と琉球国王と国際秩序では位置付けられている両者が、明らかに上下関係の意識を共有していることです。
しかし上下関係にあることは、当時の琉球が日本の一部であることを意味しません。上下関係=同一の文化というのは、我々の先入観にすぎません。
「伊勢貞助雑記」(『続群書類従』所収)には次のようにあります。
御内書に御君印出され候事候哉。おもてむきの御内書に朱印の御事不理覚悟候。又古府案候も不及見申候。琉球国人御朱印を出され候御事は、勘合と申て、各別の御儀にて候。大唐、琉球、高麗、此三ヶ国へは勘合と号して、彼三ヶ国より調進申。其を出され候事候。下々にわりふなとゝ申やうなる儀候。
御内書には印を捺さない、ということのようです。印を捺すのは明、朝鮮、琉球に限ることのようです。明らかにこの三国は外国として扱われていることがわかります。
そもそも日本の内部の琉球に対して上から目線というのでは室町殿権力を荘厳しません。朝鮮や明に対して上から目線で臨むのは、その努力はなされたものの、相手の問題もあってうまくいきません。室町殿にとって上から目線で臨む異国が存在することが必要だったのです。
ちなみに琉球世の主宛ての文書は仮名書きですが、仮名書きを主とする御内書は琉球世の主宛てのものを除くと二通しか存在しません。仮名漢字混じりのものはもう少し存在しますが、圧倒的少数です。世の主宛て以外の二通の仮名書き主体(返り点を使わない形式)の御内書は洞松院(赤松政則後室で細川勝元娘)宛てです。女性に宛てたものか、琉球世の主に宛てたものしかないわけです。
琉球からの文書は普通の和風漢文です。これは日本宛ての文書作成を日本から派遣された禅僧が担当していたからだと思われます。では琉球宛ての文書はなぜ仮名書きなのでしょうか。三条西実隆は女房が書いたからではないか、と推測していますが、永享年間の義教→尚巴志宛ての国書は「飯尾大和奉」と書かれていることから、その推測は外れている蓋然性が高いです。おそらく、当時の琉球が仮名書き文化であったことがその答えでしょう。この辺は佐伯弘次先生が何か書いていらっしゃいましたが、今すぐにはそれが出てきません。すみません。