足利義晴御内書の検討
国立公文書館所蔵「朽木家古文書」から「足利義晴御内書」です。
御内書ですから次の三つの特徴があります。
1、年号を欠く書状形式の直状。
2、書止文言が「也」と言い切り。
3、室町殿の花押が据えてある。
中身はざっくり朽木稙綱に御料所の近江国首頭荘の代官を任せる、というものです。
足利義晴はこの文書が発給された享禄二年には朽木にいました。なぜこの文書が享禄二年とわかるかというと、『史料纂集 古文書編 朽木文書』にそう書いてあるからです(きっぱり)。あと木下昌規編『シリーズ室町幕府の研究3足利義晴』(戎光祥出版、二〇一七年)にもそう書いてあります(きっぱり)。先行研究で享禄二年と判明しているので、ここでは逆らわずに享禄二年ということで。
花押が義晴の場合、享禄三年正月の権大納言任官を契機に写真のような武家様花押から公家様花押に変えているので、この文書は享禄三年以降ではありえません。朽木稙綱の忠節を褒めていることから、義晴が朽木にいた時と考えられますが、義晴の朽木滞在は享禄元年九月から享禄四年の二月までです。享禄元年九月から享禄三年の正月の間の七月十六日は享禄二年しかありません。享禄二年という年紀はこうして算出されているのでしょう。
このころは義晴人生最悪の時期(第一幕)でした。ちなみに義晴の人生はほぼ最悪の時期しかありません。この二年前の大永六年七月、細川高国が重臣香西元盛を殺害し、細川京兆家の内紛が勃発します。反高国派は足利義維、細川晴元を担いで足利義晴、細川高国に対抗します。大永七年正月、桂川の戦いで敗北した義晴は近江坂本に逃亡します。一旦は和睦が成立し、義晴は帰京しますが、大永八年五月に再び坂本に出奔、義晴は坂本から朝廷に執奏して享禄と改元しますが、九月には朽木に移り、朽木稙綱を頼ります。その年には稙綱は御供衆に加えられ、翌年七月には御料所の代官に任ぜられます。これがその文書です。しかし翌月には近臣が朽木より出奔してしまいます。
義晴の憂鬱な時期は、晴元の重臣柳本賢治と三好元長の争いから始まって、賢治が元長に殺され、元長が晴元の計略によって一向一揆に殺害され、一向一揆も晴元の計略で日蓮宗によってつぶされます。で、ようやく晴元と義晴は和睦します。晴元という実名(じつみょう)はこの時以降に義晴から一字拝領を受けることによって成立するのであって、それ以前は六郎という仮名(けみょう)を名乗っていました。
以上大変ざっくりと背景を説明しました。