後花園天皇の生涯
2020年8月1日追記
初となる後花園天皇の評伝である拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)のお知らせを記載しました。
このブログのもう一つのコンテンツです。後花園天皇の生涯について見ていきます。
後花園天皇は今の数え方では102代天皇です。ちなみに当時の数え方では104代にあたります。当時の数え方は今と比べて神功皇后を足して、弘文天皇、仲恭天皇を引きます。さらに今は後醍醐から後花園までは、後醍醐−後村上−長慶−後亀山−後小松−称光と数えますが、室町時代には南朝は「フェイク天皇」と考えられていたので、後醍醐−光厳−後醍醐−光明−崇光−後光厳−後円融−後小松−称光と数えます。これで3代増えます。102+1−2+3で104代目となります。
神功皇后が歴代天皇から削除されたのは1926年と割に最近です。これで現在の歴代が完成します。
在位年は1428年から1464年、生没年は1419年〜1470年となります。室町時代の半ばで、将軍では足利義持から足利義政となります。応永の大飢饉や応永の外寇、土木の変や第一尚氏滅亡、癸酉靖難といった東アジアレベルで大きな変動が起こっています。日本でも応仁・文明の乱が起こったのは後花園の最晩年です。彼自身、畠山政長治罰院宣を発給したことで、開戦責任の一端を背負います。
彼の人生は大きく四期に分けられます。
まず没落過程にある世襲宮家の嫡子としての時期。観応の擾乱で後光厳流と崇光流に分立した北朝ですが、細川頼之の裁定で後光厳流に皇位が継承されることが決まります。しかし後光厳−後円融−後小松−称光と来て天皇家が断絶します。その危機に崇光の子孫の伏見宮家から後小松院の猶子として皇位を継承したのが後花園でした。
親王宣下も経ずに皇位を継承した後花園ですが、後小松院は健在で、後小松院制が敷かれています。これが第二期です。
第三期は後花園親政の時期です。この時期は後花園の後光厳流から崇光流への変化、大覚寺統後醍醐流の断絶など、天皇家の改革が活発に行われた時期で、永享の乱や嘉吉の乱など後花園の綸旨の発給が活発化する時期です。後花園による綸旨の発給と政局への関与は天皇権威の上昇か、室町殿の代行かという問題もあります。その反動として後南朝による三種の神器の奪取事件も起こります。そして寛正の飢饉による足利義政への諷諫が行われたのもこの時期です。この時期は後花園がもっとも輝いていた時期といっても過言ではありません。
第四期は後花園院政期です。後花園は嫡子の成仁親王(後土御門天皇)に譲位し、院政を開始しますが、三年後には応仁の乱が勃発、その引き金を引いたことに対する責任を取り、出家して政務から引退します。そしてほどなく急死します。
後花園天皇に関しては、実は本格的な評伝は出されていません。またミネルヴァ日本評伝選や人物叢書でも取り上げられる予定はなさそうです。そこで私がここで少しずつ仕上げていきたいと思っています。
追記:2020年7月に事実上初の後花園天皇の評伝を出版しました。『乱世の天皇』という題で東京堂出版様から出していただきました。
よろしくお願いします。
考えれば修士論文以降の研究は、そのほとんどが後花園天皇の時代を扱ったものです。後花園という時期で切り取れば、東アジアの変動もクリアになります。室町殿では足利義持、義教、義政と切れてしまいます。海域アジア研究という視点からも、応仁の乱に至る政治過程の研究という視点からも、天皇制の中世における意義という側面からも、非常に重要な視点を提供してくれる人物です。