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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇の生涯−生誕〜践祚

 

凡例

宮内庁編『後花園天皇実録』をもとに「年月日、事項、典拠史料名」を記述。後花園天皇の事績とその典拠史料を調べやすいようにまとめる。底本にしたのはゆまに書房の『後花園天皇実録』

天皇皇族実録 vol.85~87 後花園天皇実録 全三巻 - ゆまに書房

 

天皇皇族実録 85~87 後花園天皇実録

天皇皇族実録 85~87 後花園天皇実録

 

 

 

応永二十六年

六月

十八日、寅刻、外祖父庭田経有第で誕生

この日、陰陽頭安倍泰継、若宮降誕の勘文を進める。

看聞日記

(按)『後花園天皇実録』では六月十七日生まれという記述が存在することについて『看聞日記』六月十七日条に「寅刻」とあって、それが条文の最後に記されていることから、夜の寅刻、つまり十八日の早朝に生まれたのだろうとしている。場所については「外祖父庭田経有ノ第ナルベシ」としている。

二十三日、御七夜の儀が行われる。

看聞日記

七月

十九日、産所より二条殿(伏見宮邸の幸子の住居)に入る。

看聞日記

八月

七日、崇光天皇以来の相伝の宝剣を貞成親王より受ける。

看聞日記

応永二十七年

十二月

二十四日、髪置の儀。

看聞日記

応永二十八年

二月

二十日、魚味の儀。

看聞日記

応永三十一年

正月、真乗寺の塔主恵明が彦仁王の皇位について夢を見てそれを崇賢門院広橋仲子(後円融院生母)に告げ、足利義持の耳にも入ったことを崇賢門院の元に年始の挨拶に行った田向あや(田向経良娘)が貞成親王に報告する。

看聞日記

〔参考〕として応永二十九年八月五日条を掲げる。内容は、足利義持が後小松院の仙洞御所に参った時に命令があった、という内容を広橋兼宣が伝え、年齢などいろいろ問うてきた、という内容。

三月

二日、初めて弓射を試み、箭開の儀。

看聞日記

応永三十二年

四月

二十八日、貞成親王とともに宇治川で船遊び。

看聞日記

七月

二十八日、鹿苑院主(厳中周噩)より彦仁王の年齢について足利義持の意を受けて問い合わせ。称光天皇の病状による。

看聞日記

二十九日、称光天皇重病、皇位継承について南朝子孫の所望があり、後小松上皇足利義持の話し合いの結果、彦仁王に決定しようとするが、称光天皇が回復したこともあって沙汰止みになる。

看聞日記、椿葉記

〔参考〕として「近衛公爵家文書」の南北朝合体の条件に関する文書が三通(明徳三年十一月十三日付阿野実為宛足利義満書状他二通)が載せられている。

八月

十日、貞成親王、彦仁王の登極について夢を見る。

看聞日記

正長元年

七月

十三日、伏見宮邸より東山若王子に渡御、称光天皇重病と南朝子孫の小倉宮聖承逐電による。

満済准后日記、皇代略記、椿葉記

十六日、後小松上皇、彦仁王を猶子と定めるという書状を足利義教に渡す。

満済准后日記

十七日、若王子より仙洞御所に渡御、後小松上皇と対面、猶子となる。

満済准后日記、椿葉記、薩戒記目録

二十日、称光天皇崩御、内裏の触穢により前右大臣三条公光の第を修築し新内裏とする。

椿葉記

二十八日、東洞院殿より前右大臣三条公光の土御門高倉第に渡御、践祚の儀左大臣二条持基の関白を改めて摂政とする、嘉承の例(鳥羽天皇の即位)により院の詔を以って宣命を作る。土御門殿から剣璽渡御、次に内侍所渡御の儀。

満済准后日記、管見記、皇年代略記、椿葉記、公卿補任、諒闇記、続史愚抄

(按)「践祚ノ日次、椿葉記ニ二十九日トセルハ謝リナルベシ」とある。

二十九日、称光天皇泉涌寺に葬る。安楽光院に於いて称光天皇の中陰仏事がおこなわれる。称光天皇の素服を公卿に賜る。

薩戒記目録、続史愚抄

三十日、践祚後吉書奏。この日称光天皇の拾骨を行う。

薩戒記目録、続史愚抄