織田信長朱印状を読む3
少し間が空いてしまいました。織田信長朱印状を読むシリーズです。前回翻刻までは済ませました。そして印判状のバリエーションを少し見てみました。
では元に戻って、朽木元綱宛織田信長朱印状を見ていきます。
読み下しからです。
今度使者差し越され、内存の通り承り届け候。別して忠節の至り祝着に候。須戸庄請米の事、前々の如く申し談じ候。并に新知方の儀、磯野に申し含め候。相違あるべからずの状件の如し。
現代語訳。
この度使者を出されて、お考えの通り承り届けました。特に忠節を尽くされたことは祝着です。須戸庄の請米のことは前々の通りに相談いたします。それと新たな知行地については磯野員昌に申しふくめております。以上のことには間違いがありません。
この文書が出された元亀二年は、信長が朝倉義景を攻撃した時に、浅井長政が裏切った結果、信長の金ヶ崎の退き口(のきくち)が行われた翌年に当たります。義弟の長政に裏切られた信長は池田勝正・明智光秀・木下藤吉郎らをしんがりとして残し、自らは朽木谷を通って京都に逃げ帰りました。その時に朽木元綱が協力したことへの恩賞です。
磯野員昌はもともと浅井氏の重臣で、信長が態勢を立て直し、浅井・朝倉連合軍と戦った姉川の戦いでは信長の本陣に迫る猛攻を見せています(疑問もあるそうですが)、敗戦後、員昌の佐和山城は孤立し、信長に降伏します。信長は員昌に高島郡を与えていますので、高島郡に属する朽木氏は員昌の配下に入ったことになります。
ちなみに「天下布武」の朱印について、国立公文書館の解説でも「武力による全国制覇」とありますが、久野雅司『足利義昭と織田信長』(戎光祥出版、2017年)に天下について「当時の用法は、京都を中心とした畿内で将軍が支配する領域」(9ページ)とされており、信長が天下布武の朱印を使い出すのが、足利義輝暗殺後2年後のことと考えると、将軍が支配する畿内への進出を企図したものと考えるべきかな、と私も考えます。「全国制覇」と考えると少し飛躍しすぎと思います。