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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

嘉吉の乱の治罰綸旨の起草案を完全に書き換える後花園天皇

後花園天皇嘉吉の乱で赤松満祐治罰綸旨を出したことは、ごくごく一部の歴史愛好者の間では有名です。

 

赤松満祐はいろいろあって足利義教を暗殺したわけです。ちなみに現場は二条城の向かい側、堀川通の東側です。そこから満祐は義教の首を持って、丹波口から現在の八条通を通って山陰街道に出て、さらに物集女街道を通り、西国街道に出たようです。八条通には娘の出身保育園と亡父の最期の住処、山陰街道沿いには新婚当時住んでいた家、丹波口は現在住んでいる近所、西国街道は私の実家の近く、と関係の深いところばかりです。

 

満祐と管領細川持之は親しかったために、色々とあらぬ噂を立てられ、統制力を失います。山名持豊はすっかり「ヒャッハー!」と赤松討伐のための軍勢でヒャッハーなことをしています。弱り果てた持之は天皇の権威にすがる事を決意しました。

 

持之が朝廷に掛け合ったのでしょう。嘉吉元年の七月三十日には天皇側近の坊城俊秀(18)が万里小路時房(46)のところにやってきます。

俊秀「綸旨をだすことになったんすよ。何とか草案をお願いできないですかね。明日が吉日なのは分かってますが、今日出さへんと間に合いませんねん。」

時房「え〜と、今日は三十日で、大赤口だろ?今日は軍事のことはせえへんと決まってんねん。だから悪いけどだせへんわ。明日にしてくれへんか?」

俊秀「そこをなんとかお願いしますよ」

時房「しゃーないな。とりあえず書くけど、この前の永享の乱の時の綸旨見てへんから、大外記の清原業忠に添削してもらわんといかんので、悪いけど業忠呼んできてくれ」

俊秀、業忠(32)のところに。

俊秀「大外記殿にお目にかかりたい」

 業忠の家人「主人はただいま霍乱(嘔吐と下痢を繰り返す病気、絵参照)ですので、お会いになれません」

病草紙 霍乱の女 - e国宝(食事中の方は注意してください)

 俊秀(仕方ない、裏口から突入だ)

俊秀「チェストー!!!!!」

無事草案の添削も終わり、時房や中山定親(40)との打ち合わせも無事住んで後花園天皇(22)のもとに。

俊秀「陛下、草案が出来上がりました。いかがでございましょうか」

草案を示す。

播磨国凶徒事、忽乱人倫之紀綱、猶及梟悪之結構。攻而無赦、誅而不遺者乎。急速遣官軍可令加征伐給之由、天気所候也。以此旨可令申入給、仍執達如件

八月一日   左少弁俊秀

謹上 右京大夫殿

 

播磨国の凶徒の事、たちまち人倫の紀綱を乱し、なお梟悪の結構に及ぶ。攻めて赦すなく、誅して残さざるものか。急速に官軍を遣わし、征伐を加えしめ給うべきの由、天気候ところなり。この旨を以って申し入れしめ給うべし。よって執達件の如し)

後花園「まあええんちゃうの。でもちょっと文章加えとくわね」

後花園、_φ( ̄ー ̄ )

後花園「こんなもんでどやろ」

 満祐法師并教康構陰謀私宅、忽乱人倫之紀綱、拒朝命於播州、相招天吏之干戈。然早発軍旅可報仇讐。兼亦尽忠於国致孝於家唯在此時。莫敢旋日。兼亦彼合力之輩可被処同罪之科者

(満祐法師ならびに教康、陰謀を私宅に構え、たちまち人倫の紀綱を乱し、朝命を播州に拒み、天吏の干戈を相招く。しかれば早く軍旅を発し、仇讐を報ずべし。兼ねてまた忠を国に尽くし、孝を家に致すはただこの時にあり。あえて日をめぐらすなかれ。兼ねてまた彼に合力の輩も同罪の科に処せらるべし、てえれば)

後花園「天気以下は書き足しといてね」( ̄∀ ̄)

 俊秀(((((;゚Д゚)))))))(ほとんど原型残ってへんやん。「忽乱人倫之紀綱(たちまち人倫の紀綱を乱し)」以外全部書き換えかい!

後花園「これでいくから、他の奴らのところにも回しといてや」

俊秀「は、はい」(>人<;)

綸旨が回ってきた西園寺公名(31)。

公名(えー!これ天皇自ら書かはったん?あり得んわ〜)(−_−;)

(以上、万里小路時房の『建内記』をもとに「忠実に」現代語訳)

 

ちょっと解説を加えます。

俊秀が「何としても今日中に」という感じで迫ったのは、当然上から命令されていたからです。それに対して時房が渋ったのは出したくなかったからでしょう。西園寺公名が文句を垂れていることからもわかるように、治罰綸旨を多くの公家は出したくなかったのです。清原業忠が「霍乱」(ゲロと下痢の合わせ技)と称して会おうとしなかった(俊秀が突入したため仮病ということがわかります)のも、責任を負わされるのが嫌だったからです。

なぜ公家たちは治罰綸旨をいやがったのでしょうか。幕府に恩を売って優位に立つチャンスなのに、と我々は思います。しかし筋論から言えば、満祐が義教を殺したのは、あくまでも家臣が主君を殺したのであり、それは足利家の内部の問題であったわけです。足利家の私的な問題に朝廷が介入するわけにはいかない、朝廷はもっと大所高所からの見識が望まれたわけです。足利持氏の場合は天皇の名の下に定められた元号を使わないという挙に及んでいたために朝敵となったので、治罰綸旨の発給は自然です。しかし満祐は義教を殺害しただけで、天皇に背いたわけではありません。

俊秀が焦っていたのは、おそらく天皇から尻を叩かれていたからでしょう。後花園天皇は自ら添削してほとんど原型を留めないほど書き換えてしまう、ということから伺えるようにものすごく前のめりです。後花園の気持ちは分かりません。義教のことが好きだったのか、天皇の権威を上昇させるチャンスだと思ったのでしょうか。