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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

『東日流外三郡誌』に登場する後花園天皇

(追記)2020年7月31日更新しました。

 

拙著『乱世の天皇』第八章「後花園天皇の時代の海域アジア」の4「北アジア」の項目です。拙著では本筋ではないためにあっさりと記していますが、結構調べています。

 

www.tokyodoshuppan.com

 

世の中にはパチモンというか、偽物が存在します。今日紹介するのは有名なフェイク史料です。『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)といいます。1970年代から90年代にかけて騙される人が続出した史料です。詳しくはウィキペディアを参照ください。

 

東日流外三郡誌 - Wikipedia

 

内容は、いろいろあるのですが、津軽地方に大和地方とは異なる王朝が存在し、その王が神武天皇に追放されたナガスネ彦を祖とする津軽安藤氏であった、というネタです。

 

津軽安藤氏とその末裔である三春藩主秋田氏がナガスネ彦を祖とする伝承を持っていたこと、津軽安藤氏がいわゆる「蝦夷管領」「日の本将軍」として「蝦夷沙汰」つまりアイヌとの交易の管理者であったことは、事実と考えられていますし、十三湊が機能していた時期のアイヌがサハリンやアムールランド、十三湊などを結ぶ交易民族であったことも史料的に裏付けられるところではありますが、十三湊を国際交易港として過大評価するとか、アラハバキ族の王であったとか、まあいろいろと無茶が書いてあります。

 

見事に騙された、というべきなのが『市浦村史』です。津軽安藤氏の本拠地の十三湊を村域に含む市浦村では津軽安藤氏による安東水軍の活躍を記した『東日流外三郡誌』を『市浦村史資料編』として刊行しています。『市浦村史』は有名ですが、『函館市史』も騙されています。しかも『市浦村史』は検証され、市浦村でも発掘調査書を出すなどして見直し作業が着実に行われていますが、『函館市史』では現在でもそのままネットで見ることができます。

ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム

ここで函館市自身が『函館市史』通史編1を公開していますが、見事に『東日流外三郡誌』を下敷きにした記事が残っています。残っているのはいいのですが、何らかの注釈をつけるとかしないと、フェイク史料にお墨付きを与えていることになりはしないか、と心配です。この辺拙著でも指摘しています。1980年の文章なので、現在の段階では何らかの注釈を施すべきだと思います。

 

ここで引用されている「羽賀寺賛否書」「小浜往来記」というのはいずれも『市浦村史資料編』中巻に載せられているもので、『東日流外三郡誌』の一部を構成するものです。

 

ちなみに私はこの『市浦村史』を閲覧するために非常に苦労して立命館大学琵琶湖草津キャンパスに行きましたが、その数ヶ月後、ゴミ部屋を掃除したら、出てきました。買っていたんですね。台風で名神が普通になって3時間かけて宇治で引き返した苦労、次週に高速代使って行った苦労は何だったんだろう、って。

 

函館市史』では後花園天皇の南部氏討伐の宣命なるものが引かれています。私は後花園天皇について調べ始めてから二十数年、討伐するための宣命を見たことがありません。討伐を命じるのであれば治罰綸旨か治罰院宣です。

 

ちなみに『市浦村史』「羽賀寺賛否書」では「宣令」となっています。私は天皇の出す文書で「宣令」というのを見たことがありません。「令」と「命」は似てますので、写し間違いということはあるでしょうが、宣命だとしても全く宣命ではありません。

 

では内容を少し見て見ましょう。

安倍一族之処領侵不可、東日流外三郡皇領也。依皇領守護職任安倍一族当主者也。茲犯皇土者朝敵輩也。安倍一族代天朝是討伐永代任者也

嘉吉三年正月        押桐紋印

              菊華印  花押

 

もしこんな稚拙な文言を後花園天皇のところに持って行ったら「まあ、ええんちゃうの?でもちょっとだけ書き足しとくね」と言って全く別の文言を書いてきたでしょう。

 

そもそも「侵すべからず」と「侵不可」と書いているところでアウトです。「不可侵」と現在でも書けます。(2020年9月16日追記。史料の「侵不可」の「侵」の字を抜かしていました。)

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

ちなみに所収の「羽賀寺賛否書」はその一文目からデタラメです。「世々をして南朝に誓忠なる安倍一族」とありますが、津軽安藤氏がゴリゴリの足利方だったことは史料的に動かしようがありません。ちなみに南部氏は南朝方だったようです。

事実とは正反対の「南朝に誓忠なる安倍一族」という記載に戦前の価値観が見て取れます。少なくとも江戸時代の価値観ではありません。百歩譲って南部氏の「東北太平記」ならばまだ筋が通りますが。ちなみに私は「東北太平記」もかなり怪しいと見ています。

 

「小浜往来記」における後花園は羽賀寺の焼失に「大御心を軫痛なさしめ給へ」「御涙流るゝかはく刻もなく再興を幕府に御勅請に及ぶるもその請答徒らに歳月を重ぬる耳なりせば」夢に行基が現れ「奥州東日流十三湊の住人安倍一族に宣あらば羽賀寺を得む」と言われ、勅使を「奥州東日流十三湊福島城」に遣わすことになっています。室町幕府に対するディスには抜かりはありません。これ、多分実際に羽賀寺に伝わる「羽賀寺縁起」(『東日流外三郡誌』にも同名の書物が収載されているが、全く別物)を下敷きにしてるんだろうなとは思います。なぜなら「羽賀寺縁起」(正しい方)には後花園天皇は出てきても足利義政は出てこないからです。その理由については近いうちに論文で考察したいと思います。(拙著第八章で考察しています。)

しかし室町幕府ディスはこれを書いた人の歴史認識が抜きがたく現れています。

 

この結末は「南部氏を外浜の討待辺にて一兵をも逃さず討取れり。南部義政はその行方さだかならず茲に応永以来続きたる東日流の戦乱ようやく鎮りぬ」となります。なぜ安藤氏が北海道に行ったのか、よくわからない結末となっています。私の記憶が正しければ、安藤氏は南部氏に敗れて北海道に行ったはずです。これは当時の室町幕府の関係者の証言があるので間違いがありません。

 

「小浜往来記」は「享保元年十月」の日付、「羽賀寺賛否書」は享保元年の日付が付されており、秋田季任という人物が書いたことになっています。

 

念を押しておきますが、フェイクです。どこまでフェイクなのか、という問題はありますが。例えば『東日流外三郡誌』に収載されている「秋田竜起山蒼竜寺棟札」は同文のものが大正15年の『青森県誌』に収載されており、これをそのまま使っていることは明らかです。あちらこちらの都合の良い史料をつまみ食いしている可能性はあります。それを差し引いてもあまり良質な史料には結局巡り会いませんでしたが。例えば小浜市の羽賀寺に収められている「羽賀寺縁起」を丸写しするとか、後花園天皇の「宣命」にしても『建内記』の赤松満祐治罰綸旨の文言を少しだけ変えて使うとか、そういうところにまで頭は回らなかったようです。

 

このエントリで言いたかったのは、『函館市史』がいまだにこういうデタラメを注釈抜きでネットにアップしているのがけしからん、というわけではなく(何らかの注釈は施すべきだと思いますが)、後花園天皇を考える場合になぜ後花園天皇が活躍するのか、ということです。なぜかと言いますと、南部氏にまつわるフェイク史料にも後花園天皇が大活躍するからです。

 

これについては別エントリで詳しく取り上げていますが、何と「羽賀寺賛否書」では朝敵として討伐されている南部氏に、「南部太平記」では後花園天皇がわざわざ御簾をまくりあげて南部政経を間近にまねきよせ、涙を流して別れを惜しんでいるからです。南部氏を討伐せよと命じたり、南部氏の忠義を讃えたり、北方史では非常に忙しい天皇です。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com