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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

『東北太平記』に登場する後花園天皇

2020年7月31日追記

 

拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)発刊に伴い、拙著の関連エントリとして少し手を加えてご紹介します。

本書第八章「後花園天皇の時代の海域アジア」4「北アジア」の項目です。

 

www.tokyodoshuppan.com

 

『東北太平記』は江戸時代に旧八戸南部氏家臣だった福士長俊によって著されたとされる書物です。詳しくはウィキペディアを見てください。蠣崎蔵人の乱について書かれています。これもウィキペディアを見てください。

蠣崎蔵人の乱 - Wikipedia

ただし蠣崎蔵人の乱の項目には一箇所間違いがあります。「大崎氏の一族山科教兼」とありますが、大崎氏の当主大崎教兼です。南部氏では「教兼」の書状を京都のものっぽく見せようと、公家の山科教兼に偽装したのであって、実際は奥州探題の大崎教兼挙状が「八戸南部氏文書」に残っております。詳しくは『青森県史 資料編 中世1』をご覧ください。

 

蠣崎蔵人の乱についてですが、『東北太平記』によれば、護良親王の子孫が北部王として残っていたのですが、蠣崎信純に殺されてしまい、それを平定するために南部政経が戦う、という話です。

 

いろいろあって蠣崎蔵人が内大臣洞院実熙をだまくらかして、畠山持国をうまく利用して、後花園天皇(今上皇帝彦仁)が「御父道欽」(貞成親王法名)に上皇号を奉ったものの御所も作れないので蠣崎蔵人が寄付してうまくやり抜けるシーンがあります。実熙が「義政政を専らにする事不能」と義政ディスは欠かせません。

 

しかし蠣崎蔵人の嘘はバレ、右大臣敏則(←誰やねん)によって新たに朝廷でもいろいろやって蠣崎蔵人を討つべしと決まるようです。康正二年八月二十八日付の右大臣敏則の書状が南部政経のもとに届けられます。だから右大臣敏則って誰やねん。ちなみに康正二年八月二十八日現在の右大臣は一条教房です。足利義教から「教」の偏諱を受けているので、一回も「敏則」と名乗ったことはありません。教房は土佐一条氏の祖となります。

 

その後「検非使(ママ)孝安」の関白奉書がきますが「関白殿依御気色執達如件」という書止文言です。当時の関白は二条持通です。奉者は「弾正台前信濃守孝安」となっています。「前信濃守孝安」は現存する『八戸南部氏文書』(『青森県史 資料編 中世1』)に出てくる名前です。彼は斯波武衛家の家宰です。なぜ関白二条持通の奉者を務めているのでしょう。あり得ません。いくら室町時代の朝廷がグダグダでも斯波武衛家の家宰が関白奉書の奉者を務めるはずがありません。ただこれで福士長俊が八戸氏ゆかりの人物であることは確定しました。

 

またいろいろあって政経はぼろ勝ちし、蠣崎蔵人は北海道に逃れ、政経は上洛して参内の栄誉に浴することになります。「忝も日嗣百三代今上皇帝諡後花園院の竜床に近づき」「三位光康卿介添」とあります。「三位光康」って誰でしょう。念のため『公卿補任』で調べましたが、光康という人物は見当たりません。

 

政経は「一度も足利家の命令に従わず、五代六十五年になります』(一度も足利家に下知を不請して五代六十五年に候)と大見得を切ります。足利ディスりは怠りありません。すると「帝を始め一座の公家たちもあっと感動する声がしばらく鳴り止まなかった」(帝を始め奉り一座の諸卿アツト感し賞し給ふ声、暫し鳴りも止まさりけり)とあります。足利家の家長代理も経験した後花園天皇ならばそこはガチギレするところです。

 

ハイライトです。「帝は御簾を高々と巻き上げられ、『政経よ、汝は東の果てに、朕は宮中の深いところにいる。別れた後は互いに会うことは難しいだろう、顔を上げてよく見せてくれ』」(時に帝は御簾高々と巻上けられ、いかに政経、汝は東の果に朕は九重の深きに居る。一別の後互に見る事定め難し、面を上けて能くよく見知らせよ)といい、政経の顔をつくづくと見そなわして「このような英雄が近くにいたならば朕の身もとも」(斯る英雄近きにあらは朕か身もと計り)と涙涙、鏡を手に取り「今、政経の功績は高く、賞は大変少ない、朕の心が痛むのはそのことだ。思いをよく察して折々に朕を思い出せば鏡を真正面から見て真心を通わせよ、近くに近くに」(今卿功高くして賞甚だ下くし。朕か心やめる事爰にあり、能く思ひよく察して折りおりに朕を思ひ出さは正敷向見て真心を通はしめよ、近ふ近ふ」と鏡に和歌を添えて賜ったので政経も涙を流しながら退出します。和歌は「我物と しれとも儘に ならぬ世に 見よや鏡の うちの面影」というものです。和歌を論評する能力はありませんが、寛正の飢饉で漢詩を駆使して義政をいびり倒す後花園らしくはないかな、と思います。勅撰集に十二首入集し、詩歌管弦に堪能だったと伝わる後花園にふさわしい歌とは思えません。

 

政経は帰国することになります。「態と室町殿に差かゝり、懸らは討んと意を含み、悠々として打通り」と最後まで義政ディスには余念がありません。

 

義政ディスに何度も言及してきましたが、これ意外と大事だと思っています。勤王と足利家ディスは江戸時代後期に出てくるものであって、江戸時代初期に足利家ディスと勤王が出てこないんではないかなぁと思っています。従ってこの『東北太平記』が江戸時代前半に書かれたもの、という見方は多分間違っています。少なくとも江戸時代中期以降でしょう。