記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

『看聞日記』永享七年八月六日条のうちから伏見宮御所移転関係

翻訳から

三条中納言(実雅)が来た。用事は何かわからない。急いで対面した。申される内容は「室町殿様(足利義教)が京都御所を建てられて、それを伏見宮様に進上したいということです。ただ御在京は御仕えする人々にとっては難儀なことなので、このまま伏見にいらっしゃるのがよろしいか、宮様の御意はいかがか、ということを内々に尋ねよとの仰せで参り申しました」ということである。「旧院御所を壊して一条東洞院内裏の近所に立てましょう」ということである。

「東御方(貞成親王の父栄仁親王の側室)が普段から伏見御所は手狭で荒廃しており、さらに在京したいということを申される。誠に御意は本当なのだろうか、東御方は耄碌してあらぬことを話しているのだろうか、そこで御乳人(後花園天皇の乳母で貞成親王後花園天皇を結ぶ女官)をお呼びになって同じことをお尋ねしました」ということである。「まず大変喜ばしいことで、何も言いようがない。大変嬉しいけど、在京はおおごとだし、なかなか実現するものでもないが、まず長年本能であり、満足で、ものすごく喜んでおります」ということを三条に申させた。

 ここの訳ですが、横井清氏の『看聞御記−「王者」と「衆庶」のはざまにて』(そしえて、1979年)では「貞成は、それでも吾が耳を疑った。公方の御意は誠なるか、東御方は『老蒙、正躰なき事を申さ」れたのではないかと。」(p298)と「ボケたんちゃうか」という言葉を貞成親王としていらっしゃいますが、原文を丹念に見る限り、やはり「ボケたんちゃうか」と思ったのは足利義教のようです。でなければ、すぐに「御乳人」を呼んで東御方がボケたのではないことを確かめることはできません。義教は室町殿、現在の同志社大学周辺に、貞成は伏見御所、現在の京阪宇治線観月橋付近にいるのですから。さらに「云々」(うんぬん)の使い方を見るに、この部分は三条実雅が伝えている義教の言い分であると考えた方が筋が通ります。横井説では「云々」がうまくいかせていません。

 

原文を以下に示しておきます。

抑三条中納言参。何事哉不審。忩対面。被申旨京都御所を被建立可被進。但御在京、祗候人男共難儀歟。地下ニ御座ハ猶可然歟。御意如何之由、内々可尋申之由被仰之間参申云々。旧院御所被壊渡て一条東洞院内裏近所ニ可被立云々。東御方不断此御所狭少荒廃、旁以有御在京度之由被申。誠御意実事歟、東御方老蒙無正躰被申歟。御乳人今朝被召此趣同有御尋云々。先以大慶不能左右、珍重無極。但在京大儀、於事雖難治年来本望之上、如此御計之間不及是非。先多年本望満足喜悦千万之由、三条へ令申。

 なぜ義教が東御方の発言を疑ったのか、ということですが、疑った、というよりは、慎重にならざるを得なかった、ということでしょう。義教としては一刻も早く貞成親王を京都に居住させたいが、貞成親王の意向がどうか、ということが気にかかっていたのでしょう。何しろ貞成親王がどこに居住するか、というのは、後花園天皇がいずれの皇統に属するのか、をめぐる一大事だからです。東御方からの情報は義教にとっては都合のいいものでした。京都の仙洞御所に住まわせれば、後花園天皇を後光厳皇統から引き剥がして崇光皇統に付け替えることができるからです。満済も逝去した今となっては絶好のチャンスです。しかし肝心の貞成親王が嫌がっていれば見送らざるを得ない、という状況で東御方の貞成親王が在京したがっている、という情報は渡りに船です。しかしそこで飛びつかずに慎重に裏どりをしているところは、さすがに義教の性格を表しています。当時、東御方は74歳、義教のよき話し相手でありました。もっとも翌年には絵の評価をめぐって義教にキレられ、殴り倒された挙句、室町御所を追放されます。義教も完全に追放するのは気が引けたのか伏見宮に伺候することは認めましたが。