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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇の陵墓

この前、後花園天皇陵の参拝に行ってきました。後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)といいます。京都市右京区にある、とは行っても、かつての北桑田郡京北町ですから、かなり不便なところにあります。京都駅からJRバスで周山、そこから乗り換えて常照皇寺前です。私は車で行きましたが、市内から安全運転で一時間ほど、残酷なことで有名な走り屋さんならもっと短縮できるでしょうが、川に転落のリスクがありますのでオススメしません。

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常照皇寺に山門の隣に参道があります。もともとは常照皇寺の境内だったのでしょうが、明治に入って宮内庁の管轄とされたために参道が整備されたのでしょう。

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現在はここから見るのが精一杯です。

北朝天皇の多くは深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に葬られています。具体的に深草北陵には後深草・伏見・後伏見・後光厳・後円融・後小松・称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成の諸天皇が葬られています。まさに北朝の正統(しょうとう)というべき人選です。

 

ここに入っていない持明院統天皇を示しますと、十楽院上陵(じゅらくいんのうえのみささぎ)に葬られている花園天皇と大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に葬られている光明・崇光両天皇、山国陵(やまくにのみささぎ)に葬られている光厳天皇、後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)に葬られている後花園天皇になります。

 

深草北陵に多くの天皇が葬られていることを以って金がなかった、というのをどこかで見たことがありますが、そんなことはありません。金がなくて、というのであれば、花園も光明も崇光も全部まとめて葬ればいいわけで、彼らが深草北陵に入っていないことに意味があるわけです。それは何か、と言えば、花園・光明・崇光は「正統」(しょうとう)ではない、ということです。深草北陵は「正統の天皇」のみが入ることを許された陵墓なわけです。花園天皇と光明・崇光両天皇が分けられているのは、自らの属する皇統の始源をめぐる意識があるでしょう。すなわち持明院統後深草天皇を始祖とし、伏見・後伏見ときて、光厳天皇で大きな画期があった、という認識なのです。花園天皇はプレ光厳における「非正統」の天皇であり、光明・崇光はポスト光厳における「非正統」の天皇なわけです。

 

では、光厳天皇後花園天皇はどうなっているのでしょうか。

 

そもそもこの二人の陵墓が分けられているのが、明治以降の天皇の歴史の歪曲にあるのはいうまでもありません。後花園天皇光厳天皇は同じ陵墓に入っています。しかし明治時代、民間右翼とそれに連携した犬養毅ら、そして新聞に押された時の内閣第三次桂太郎内閣は北朝天皇皇統譜から削除する、という挙に出ます。光厳天皇も削除され、光厳天皇後花園天皇は別々の陵墓扱いとなります。

 

しかしこういう扱いが後花園天皇の意図を見誤らせるもととなっています。

 

光厳天皇の陵墓が常照皇寺にあるのは、光厳天皇がいろいろな事情から丹波国山国荘に隠遁してしまったことに由来があります。

 

そして光厳に続く持明院統の正統(しょうとう)の天皇たちは、自らのルーツを後深草天皇に求めたわけです。だから彼らは後深草天皇と同じ深草北陵に入ったのです。

 

後花園天皇はご存知の通り、傍系から登極しました。それは彼にとってはより「正統」を主張するエネルギーともなったでしょう。だから彼は持明院統の第二の始祖である光厳天皇と同一化することを選んだのでしょう。特に後花園天皇南朝に脅かされ続けたため、南朝と戦うルーツとして光厳天皇と同一化することは必要でした。

 

山国陵に入ったことを以って、京都から離れた静かな場所を求めた、という見方はおそらく正しくありません。後花園天皇にとっての安らげる場所が伏見であることは、後花園天皇応仁の乱が激化しつつある時期に弟の貞常親王に送った書状からも明らかです。もし彼が魂の安らぎを求めるのであれば、大光明寺陵こそ、まさに彼の故郷です。そこに葬られるべきでしょう。

 

後花園天皇は出家後も応仁の乱の和平に向けて懸命の努力を続けますし、南朝に対する治罰院宣を出すなど、皇統の統一にも並々ならぬ努力を行なっています。特に大覚寺統後醍醐流を根絶やしにすることは、後花園天皇の生涯の課題です。その課題を崩御後も指し示すには山国陵というのは絶好の場所であり、山国陵というのは後花園天皇の遺志をこの上なく示しているのです。事実後花園天皇はその崩御の直前に後醍醐天皇の子孫とも言われる日尊という人物を処刑させています。日尊の首は皇族に準じて処理された、ということで、後醍醐流の抹殺を一つ成し遂げた、ということでしょう。後花園天皇崩御は日尊の祟りだ、という噂は大乗院門跡尋尊*1が書き残しています。後花園天皇にとってはそういう噂が立ったこともむしろ本望だったでしょう。

 

後花園天皇崩御後もしばらく後南朝の動きは続きます。山名宗全後南朝を擁立しようとしたからです。しかし文明十一年を最後にその記録は途絶え、長享二年には義政が東求堂に後醍醐天皇の位牌を置きます。もはや後醍醐流は絶え果て、室町幕府にとっても朝廷にとっても全く危険な存在ではなくなったことを意味します。

 

それにしても後醍醐流抹殺にかけた後花園天皇の執念は、後醍醐天皇崩御に臨んで「たとえ骨は南山の苔にうずもれたとしても、魂は常に北闕をにらみ続けよう」と述べたことに匹敵するものです。その背景についてはまた考えたいと思います。

*1:最初は甘露寺親長と書いていましたが間違いです。『大乗院寺社雑事記』でした。