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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

天皇、綸旨を取り消されたってよ5

荒れ果てた神泉苑。そこに現れた唐橋在綱の家人たち。

「ここの土地は俺たちが天皇様から拝領したんだ、ヒャッハー!!!!」

神泉苑を管理していた長福寺とその管理者である東寺が訴え出た。

「あいつら、嘘ついて天皇様の綸旨をもらってやりたい放題です」

幕府の裁判が始まりました。天皇のもとにも事情聴取。その事情聴取に応じたのではないか、と思えるのがこの後花園天皇女房奉書です。

 

女房奉書は、天皇の意思を直接受け伝える内侍が奉書形式の仮名書きの書状を作成して相手に交付するもので、もともとはメモでしたが、室町時代以降、多く出されるようになり、戦国時代には女房奉書が普通になります。

 

女房奉書は天皇直筆のものもありますが、それも含めて女筆と呼ばれる独特の仮名書き主体の筆跡で、しかも散らし書きと呼ばれる独特の文字配列をしています。

 

前回の最後に示した女房奉書案はあくまでも案文(あんもん、控え)なので、普通の配列になっていますが、本文(ほんもん)は散らし書きだったはずです。さらに内容がかなり踏み込んでいるので、後花園天皇宸筆の可能性をあると私は見ています。

 

では見て見ましょう。

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後花園天皇女房奉書案

東寺百合文書ほ函108号文書です。

hyakugo.kyoto.jp

翻刻文です。

(端裏書)

「女房奉書案 神泉苑事」

とう寺より申神せんゑんの事、

かん二位かやうに申候、このくわうやの

事、きうこんにつきてのそミ申候

ほとに、御さたをへられ候て、りんしを

なされたる事にて候、この申しやうに

見候ことく、たかさせ候事候やらん、

かのいけの中まて、さくようを

いたし、よろつかヰにまかせ候事とも

候とて候、さやうのきしかるへからぬ

にて候ハゞ、なとや寺けよりこゝ

もとをハせいはヰもし候ハぬやらん、

さくまへハかん二位はいりやうし

候へハとて、いまさらとかく申候へき

事にては候はす候、そのうへ御いのりの

さい所などをハのそき候て申

うけ候ほとに、さやうの事、けん

みちニおほせつけられ候て、ちよく

さいをなされたる事にて候をり

ふしんの御さたのように申なし候、

しかるへからず候、尚々このいけをこそ、

とうしよりくわんれヰし候とも、

くわうやまてさゝへ申候へき事

にてハ候ハぬかとおほしめし候、さり

なから、しせうなと候て申事にて候

やらん、このやう御心え候て、よくよくお

ほせられ候へかしと申とて候、かしく

 

 

長禄三年六月二十四日自寺務真光院被出之 

 

 ひらがなばかりで何言ってるんだか、わかりません。子どもの頃、漢字が苦手で漢字テストでゼロ点を連発していた私としては、その頃「漢字なんてなくなればいいのに」と思っていました。自分の浅はかさを反省します。

 

漢字を入れます。

東寺より申す、神泉苑の事、菅二位かやうに申し候、この荒野の事、きうこん(休墾)につきて望み申し候ほどに、御沙汰を経られ候て、綸旨をなされたる事にて候、この申し様に見候如く、たかさせ(違させ)候ことやらん、彼の池の中まで、さくよう(作用)を致し、よろづ雅意に任せ候とも候とて候、左様の儀、然るべからぬにて候はば、なと(何故)や寺家より爰元をは成敗もし候はぬやらん、さくまへ(柵前)は菅二位拝領し候へばとて、今更兎角申すべき事にては候はず候、その上御祈りの在所などをば、除き候て申受け候ほどに、左様のこと、厳密に仰せ付けられ候て、勅裁をなされたる事にて候折、不審の御沙汰のように申しなし候、然るべからず候、尚々この池をこそ東寺より管領し候とも、荒野まで支え申し候べき事にては候はぬかと思し召し候、さりながら支證など候て申事にて候やらん、この様御心得候て、よくよくおほせられ候へかしと申すとて候、かしく

 

 ( )にくくった漢字は自信がもてないものです。

現代語訳です。

東寺より申し入れている神泉苑のこと、唐橋在綱がこのように申しました。この荒野のことは、休耕地であるため、望み申しましたので、手続きを経て綸旨を出されたことです。この言い分に見られるように、違反がありましょうか。あの池の中まで開墾し、全て自分の意思を押し通したというように言っています、そのようなことはあってはならないことでありますので、なぜ寺家より私(唐橋在綱)を成敗するのでしょうか、柵の前は在綱が拝領しておりますので、今更とかく申すべきことではありません、その上、お祈りの場所は除いて申し受けていますので、そのようなことを厳密に仰せつけられて勅裁をなされたことなので、よくわからない処置のように言っていることはよろしくないことです。なおなおこの池をこそ東寺が管理していましたが、荒野まで管理しているものではないと思し召しです。とはいいながら証拠などありまして申すことでしょう。このことを心得てよくよく仰せられよということで申すことです。かしく

 

 不満タラタラなのがよくわかります。特に「さやうの事、けんみちニおほせつけられ候て、ちよくさいをなされたる事にて候をりふしんの御さたのように申なし候、しかるへからず候」(こちらかてしっかり考えて勅裁をしてんだから、おかしな綸旨だというような言いがかりはけしからん)という部分にはかなりの怒りすら感じます。さらに「このいけをこそ、とうしよりくわんれヰし候とも、くわうやまてさゝへ申候へき事にてハ候ハぬかとおほしめし候」(東寺半端ないって。あいつ半端ないって。池はともかく荒野まで管理しているって言い張るんやもん、そんなんできひんやん、普通)と東寺に非があるかのように難癖をつけています。で、最後に「さりなから、しせうなと候て申事にて候やらん」(しかしながら、証拠などがあって申している事でしょう)と負け惜しみで締めくくります。

 

この一連の流れ、中世後期の天皇制のあり方について非常に示唆的です。一般には後花園天皇は英邁で、彼の八面六臂の活躍で天皇家は後円融院時代に失墜した天皇権威を取り戻した、というように理解されがちです。しかし近年の研究では、幕府が天皇権威を侵奪し、後花園天皇がそれを取り戻した、という形では理解されていません。室町幕府足利義詮以来、一貫して天皇権威の確立とその保全に腐心した、とされています。義満と義持以降の違いは、天皇権威をパターナルに保全しようとした足利義満と、補佐する形で保全しようとした義持以降ということになります。義満は正平の一統と後円融院の資質のために崩壊してしまった天皇権威を強力に再構築するために、自らを天皇家の家長となぞらえ、幼少の後小松天皇を力強く支え、後小松天皇が成人後の義持以降は、摂関家に准じた形で天皇権威を支えた、と理解されています。この辺、わかりやすく論じたものとして石原比伊呂氏のこの著作をあげておきます。

 

足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)