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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

禁闕の変

これについて一番詳しく記述がなされているのが、『看聞日記』です。何せ実際に巻き込まれた「御乳人」(後花園天皇の伯母で乳母)が貞成親王に報告しているからです。御乳人は貞成親王の妻の幸子の兄重有の妾で、幼少時の後花園天皇を養育していました。養育と言っても、当時の庭田邸は伏見御所の隣にあったので、後花園天皇は実の父母、養父母に見守られて成長したわけで、当時では少数派です。貞成親王ですら、今出川家で養育されています。

 

嘉吉三年十一月二十三日、貞成親王はもう寝ていたようです。「火事です!」という声に飛び起き、「内裏です!」という声に寝殿に走り出てみると清涼殿が炎上中、仰天して気を失いそうになっていると、御乳人が泣きながら走りこんできました。小袖も剥ぎ取られて、下着姿、といういかにもやばい姿です。

 

彼女によると、40人ほどの武装した連中が清涼殿に乱入してきて、天皇の普段の居場所の常御所に入ってきた、と言います。天皇はまだ就寝しておらず、そばには甘露寺親長と四辻季春がいましたが、天皇は咄嗟に昼御座(ひのおまし)の剣をとると隣の議定所に逃げ込みます。女官のトップの大納言典侍三種の神器を持ち出しますが、侵入者に奪われ、女官も散り散りになり、御乳人も小袖を剥がされて逃げ出した、と言います。この段階で天皇の行方、生死も不明で、まさに最悪の状況も想定できたでしょう。

 

夜明けになって近衛忠嗣邸にいることがわかり、さらに詳細な経過も明らかになっていきました。

 

清涼殿に乱入した侵入者はまず剣璽を狙ったようです。そして火をつけ、天皇は議定所から脱出し、甘露寺親長と四辻季春が太刀を抜いて侵入者を打ち払いながら天皇を逃しました。天皇は冠を脱ぎ捨てて女房に変装して逃げたようです。

 

北の唐門から内裏の外に脱出した天皇ですが、親長は侵入者に阻まれ、天皇と離れ離れになり、季春一人を連れて正親町持季の屋敷に逃げ込みます。ちなみに季春は当時19歳です。親長は18歳、いずれも若いです。親長はこの時には結局無事で、後花園天皇の最期を看取った側近中の側近です。

 

そこから広橋兼郷の邸に入り、そこから輿で近衛邸に移動しています。この間の動きは、襲撃を避けるために一切外部に知らされず、その間は多くの人にとって天皇の生死すら不明だったわけです。

 

源尊秀という人物が首謀者で、そこに日野有光が加わった、とされています。

 

金蔵主や通蔵主も加わっていましたが、これなどは「南方一統断絶」という足利義教の方針が関係しています。彼らは室町幕府および後光厳皇統に協力的な護聖院宮家です。しかし後花園天皇の即位と後小松院の崩御で義教の方針は後醍醐天皇の子孫は取り潰しと決定し、護聖院宮家の二人の宮は出家に追い込まれます。彼らが足利義教後花園天皇に恨みを抱くのはごく自然な流れです。

 

日野有光は後小松院の重臣です。しかし足利義教の後光厳皇統から崇光皇統への乗り換えの中で不満を募らせ、南朝に味方したようです。

 

我々の今日の考え方では「え?なんで後小松院の重臣が南朝と組むの?」となりがちですが、極端な話、後小松院が南朝よりも恐れたのが、崇光皇統だったはずです。後小松が後花園への皇位継承を了承したのは、あくまでも後光厳皇統を存続させるためでしたが、崇光皇統には貞成親王という、皇統の付け替えに執念を燃やす人物がいて、彼は自分の子どもが天皇になっただけでは不足であり、後光厳皇統を断絶させる意気込みで活動しています。また足利義教貞成親王後花園天皇の父親として位置付ける動きをしていました。後小松院の遺臣からすれば、南朝の方が皇統の付け替えをもくろまないだけまし、というものです。

 

細川勝元山名宗全が同心していた、とされていますが、この噂の蓋然性は高いと私は考えます。当時は畠山持国が執政でしたが、畠山をつぶす、という一点でこの両者は連携していたからです。しかし天皇の暗殺に失敗した段階で彼らは手のひら返しをしたのでしょう。大名が謀反に加担した話はいくらでもありますが、常に不問に付されています。権力の中枢部に累が及びそうになると常にもみ消され、彼らは何事もなかったかのように忠勤を励むのです。哀れを止めるのは末端のものたちです。

 

金蔵主と日野有光比叡山に立てこもったものの、畠山持国の軍勢に攻められ、討ち取られます。右大弁宰相の日野資親(有光嫡子)も捕縛され、斬首となって日野宗家は断絶します。

 

この問題を単に後南朝の問題で議論してはいけない、崇光流と後光厳流の確執という構図も想定すべきということを打ち出したのが田村航氏の「禁闕の変における日野有光」(『日本歴史』751、2010年10月号、pp34〜50)です。

 

私もその見解には従うべきと考えています。今までやはりこの崇光皇統と後光厳皇統の問題はかなり軽視されていたのではないか、と思います。