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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々−御乳人

後花園天皇をめぐる人々について、備忘録的にまとめていきます。

 

第一回目は、普通に考えれば実父の後崇光院か実母の敷政門院になるのでしょうが、その辺はとりあえずウィキペディアでも見ればそこそこわかるので、ここでは御乳人と呼ばれた後花園天皇の乳母について取り上げます。

 

彼女は嘉吉三年の禁闕の変の時に急を伏見宮家に急報した女性です。

 

詳しくは松薗斉氏「室町幕府の女房について」(『人間文化』28号、2013年)をご参照ください。以下の記述も全て松薗氏によります。

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__28F/02__28_143.pdf(pdf注意)

 

彼女は松薗氏によれば応永三年(1396年)生まれに比定されています。最初の子供である「春日」という女房名を持つ彼女の長女が永享四年(1432年)に21歳と記述されており、そこから春日を出産した時の彼女の年齢を16歳と措定した場合の年齢になります。従ってそこから若干の変動はあるため、実際に生没年を示すとすれば、(?)となるか、(1396?〜?)という形になるでしょう。

 

彼女の出自は伏見の地下人と見られています。宇多源氏綾小路流の庶流庭田氏の庭田重有の「妾」と記されています。庭田重有(1378〜1440)は伏見宮貞成親王の仕女で、後花園天皇の生母の幸子(1390〜1448)の兄に当たります。庭田家は崇光院の側近で、崇光院が伏見に居住するのに従って伏見に居を定めたようです。

 

実家があまり地位の高い家ではなかったらしいことは、彼女が『看聞日記』に登場するときの序列からも歴然です。常に一番最後。名前すら出ない下臈の女官が多い中で、名前が出ているだけでも立派なものではありますが、下臈の中では唯一名前が出ている彼女は常に一番最後に書かれています。

 

彼女は重有の寵愛深かったようで、応永年間だけで6〜7人の子どもを産んでいるようです。で、乳母として伏見宮家にいた皇子女8人の世話もしていたようで、松薗氏は保育園の先生のようだ、と述べています。

(松薗斉『日記に魅入られた人々』臨川書店、2017年)

 

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

 

 

永享年間に入って、彼女が伏見を離れても、重有との間に子をなし、最終的に10人前後子どもがいたようです。

 

彼女にとって一大転機は、養育していた伏見宮の一宮が突然天皇になったことでしょう。ある夜、突然伏見宮家に、出入りしている世尊寺行豊が現れ、「宮御方(後花園天皇のこと)をお連れになってください」と三宝満済の指示を伝えます。幕府の管領畠山満家が数百の軍勢を率いて護衛にきます。物々しい雰囲気の中、若宮が連れ出されます。このとき彼女は夫の重有とともに随行を命じられたのです。彼女の立場は一夜にして大きく変転しました。京都の外れのお寺の片隅に寄寓する没落皇族に使える下臈から、一天万乗の君のサポート役へ。伏見の里の地下、つまり一般人の家に生まれた彼女がいきなり宮中の奥深くに住むことになったのです。考えただけで恐ろしい。

 

しかし彼女にとって幸運だったのは、彼女の役割が伏見宮家と宮中の連絡役だったことです。彼女は宮中と伏見宮家の両方に仕えることになり、両方に顔を出すようになりました。宮中で疲れた心身を伏見で癒していたことでしょう。

 

彼女にとって次の転機は伏見宮家の京都転居です。伏見宮家、つまり崇光皇統を「正統」としたい足利義教は、崇光皇統の復活を拒む後小松院の遺言を無視して伏見宮家を仙洞御所跡に住まわせます。貞成親王を事実上の上皇に仕立て上げよう、というのです。後小松院、三宝満済が世をさり、後小松院が属する後光厳皇統を支持する勢力は弱体化していったとは言い条、義教と貞成親王の前には障害が立ちはだかります。それを一つずつ排除していく過程でした。

 

これは彼女の境遇にも影響を与えます。伏見宮家が一条東洞院に移転したため、彼女は里帰りが難しくなります。しかし彼女の「里」も一条東洞院に移転させます。要するに彼女の実家も伏見宮家のそばに呼び寄せた、ということでしょう。

 

彼女は伊勢国栗真荘と若狭国吉田三宅荘を内裏女房の御恩として受け取っていました。荘園を所有している、と言っても現在の我々が想定する形ではなく、毎年一定の金額を受け取るという形です。永享六年には「室町殿申沙汰」つまり足利義教の介入により、彼女には従来の栗真荘に加えて吉田三宅荘を受け取ることになります。これは後小松院の遺領配分によるものですが、後小松院の遺領配分を行なっているのが義教であることは、当時の天皇家と幕府の関係を如実に表しています。

 

彼女の次の転機は、夫の重有の死去でしょう。永享十二年、重有は63歳の生涯を閉じます。ここで出家するのが当時の女性のよくあるパターンですが、彼女の場合、出家して夫の菩提を弔っている場合ではありません。後花園天皇が生まれた時から世話をしていた彼女がいなければ、いろいろなことが回らなかったでしょう。

 

禁闕の変での彼女の災難は前に述べたとおりです。

 

残念ながら、彼女の活躍を記録していた『看聞日記』は嘉吉三年でほぼ終わってしまうため、その後の彼女の消息はわかりません。調べたら出てくるかもしれないので、意識しておきます。