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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々−敷政門院庭田幸子

後花園天皇の実母です。

 

この時代の女性の名前についてまずお話しします。

 

我々は源頼朝の妻の北条政子足利義政の妻の日野富子の例を見て、日本で夫婦同姓が全く伝統ではないことを知っています。

 

ただこれは少し注意を要します。

 

頼朝が知らない政子という名前、というネタがあります。北条政子は頼朝の死後、従二位に叙せられますが、その時の書類である位記に「平政子」と記されているのです。政子という名前が従二位への叙位に伴って付けられているのですが、名前の由来も単純で、時政の一字を付けています。

 

問題は「平」のところですが、これは一般には姓と呼ばれるものです。しかし姓と苗字と氏が紛らわしいのと、現在姓と苗字がほぼ同じ意味で使われていること、姓はカバネと紛らわしいこと、さらにはここでの「平」という「姓」が、桓武天皇を共通の祖先としているということを示していることなどから、私は「氏名」(うじな)というのが正しいと思います。「氏族名」の方がより実態に即していると思います。「氏族」(clan)というのはまさに共通の祖先を持つと意識されている擬制的な血縁集団です。桓武平氏、というのはまさに桓武天皇という共通の祖先を持つと意識されている擬制的な血縁集団です。

 

源頼朝清和天皇という祖先を持つ擬制的血縁集団に属する訳で、この氏族名は原則として変わりません。もっとも擬制的なので、勝手に変えてしまうことはよくあることです。ひどいのになりますと、新たに氏族名を作り上げることもあります。豊臣という氏族名は豊臣秀吉によって作られたものです。

 

で、清和源氏である源頼朝と、桓武平氏である平政子が結婚しても、氏族名は変わりません。

 

足利義政は苗字が足利で、氏族名が清和源氏です。一方日野富子は苗字が日野で、氏族名が藤原氏です。藤原氏藤原鎌足を共通の祖先として持つと意識される氏族です。この両者が結婚します。正式には彼らは「源義政」と「藤原富子」です。

 

では苗字は結婚した場合どうなるのでしょうか。日野富子北条政子の例のように変わらないのでしょうか。それとも明智光秀の娘が細川忠興と結婚したら細川ガラシャとなるように名前が変わるのでしょうか。

 

結論から言いますと、そもそも彼女らは苗字を名乗りません。で、位を授かって何子という名前を名乗るまでの名前はほとんど知られません。

 

ただ貞成親王筆まめだったので、王女の名前を一部記しています。第一王女が「あ五々」、第二王女が「めここ」、第五王女が「ちよちよ」と言います。それから前回取り上げた「内裏御乳人」は「賀々」と記されているので、これも彼女の本名かもしれません。他には東寺領新見荘の「たまかき」という女性もいました。

 

で、ようやく本題に入りますが、庭田幸子、という名前も便宜上の名前です。彼女は准后になった時に「源幸子」という名前に変えています。「源」というのは彼女の氏族名である宇多源氏です。

 

その前は三位に叙せられた時に「経子」となっています。これは彼女の父親の庭田経有から一字をとったものでしょう。

 

それ以前は女房名で記されています。「南御方」「二条」「今参」と遡っていきます。

 

彼女の性格は、一言で言えばアクティブ、これにつきます。

 

勝気で我が強く、社交的で、酒飲みで、双六(バックギャモンのこと)が強く、議論では夫の貞成親王や兄の重有をやり込めることも辞さない。室町時代の女性を言い表した言葉に「わわしき女」というのがあります。「騒がしい」とか「落ち着きがない」という意味ですが、まあ騒がしい女、ということでしょう。この時代の女性はなかなかパワーが溢れていたようです。

 

このような性格ですから、息子がいきなり天皇になって、朝廷のやんごとなき人々と交流するようになっても、もともとヒッキーでオタクの夫の貞成親王を助けて人前でのパフォーマンスを担当するようなタイプの女性だったようです。酒が酌み交わされる席には彼女がしばしば出てきます。

 

短歌は苦手だったようで、国母ということで後花園天皇の勅命で編纂された『新続古今和歌集』に載せるようにせっつかれた時には必死で貞成親王の指南を受けますが、貞成親王から「瓦礫」と評されるものしか作れなかったようです。

 

彼女は伏見宮家の女房の人事権も持っていて、彼女と合わない女官は、たとえ夫や周囲がとりなしてもガンとはねつけたり、逆に貞成親王の逆鱗に触れ、押し籠めの罰を与えられた女官をとりなして罰を取り消させたりしています。貞成親王は彼女には頭が上がらなかったようです。

 

貞成親王の妻は今の所彼女以外には知られていません。側室を置かなかった訳です。ただ松薗斉氏は、第四王女は別の女性ではないか、と推測しています。

 

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

 

 

この本は歴史にそれほど詳しくなくても、それほど興味がなくても十分に面白く読めるので強くお勧めします。

 

彼女の社交性は、特に足利義教正室の三条尹子との関係に活かされます。非常に気があったらしく、しばしば尹子のもとを訪れて長居をすることも多かったようです。

 

三条実雅(ちなみに尹子の兄)が連れてきたインチキ代官を尹子がクビにしてくれ、伏見宮家の権益を守ってくれたことがありますが、これも幸子と尹子の関係がもたらしてくれたのかもしれません。

 

彼女は健康だったようで、四十五歳で最後の王女を産んでいます。平均寿命も短く、老化も早かったこの時代に稀有のことです。

 

しかし彼女の旅立ちは意外と早くやってきました。五十九歳(満五十八歳)の時に噎病(えつびょう)に倒れます。物を飲み込めなくなり、噎ぶ(むせぶ)病気です。喉頭癌か食道癌でしょう。

 

病に倒れた彼女に後花園天皇は敷政門院という称号を与えます。しかしその数ヶ月後、彼女はあの世に旅立ちます。貞成親王の日記である『看聞日記』の最後の記述は彼女の死の数日前です。彼女の死とともに貞成親王も日記を書く気力を失ったのでしょう。(この部分再考を要します。彼女の死はショックだったかもしれませんが、日記は細切れに続いています。貞成もそこまでヤワだったわけではなさそうです。むしろ数年前から顕在化していた彼自身の健康状態もあるでしょう。嘉吉元年以降、日記が途切れがちになります)

 

彼女は臨終に先立ち出家し、正念にて臨終したと伝わります。わわしき女代表の彼女らしい、堂々とした臨終でした。