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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー東御方

厳密に言えばこの人は後花園天皇に直接深く関わった人ではありません。幼少期に彼の面倒を見ることはあったにせよ、伏見宮家の先代の栄仁親王の妻の一人で、王子を生んでいます。

 

三条実継の娘です。実継のひいひい孫が実雅と尹子なので、一応足利義教とも関係があります。

 

1363年生まれなので、貞成親王より9歳年長の義母になります。逆に言えば9歳しか変わらないとも言えます。

 

貞成親王が養育先の今出川家から伏見宮家に帰ってきたのが40歳ですから、貞成親王との初対面は49歳の時となります。

 

貞成親王からすれば義母、というよりは姉という感じではなかったでしょうか。才気煥発で口達者な女性だったようです。伏見宮家の子どもの面倒もよく見ていたようです。

 

彼女の活躍は、足利義教に気に入られて室町御所に出入りするようになった70代以降に顕著になります。足利義教伏見宮家の連絡役の一端を担うようになります。彼女の出身の家である正親町三条家が義教の外戚として勢力を伸ばしつつあったことと、彼女が仕えていた伏見宮家を盛り立てようとする義教の意向が大きかったと思われます。

 

彼女の仲介で義教は伏見宮家の移転を決断します。これは非常に大きな事業でした。貞成親王はその動きを聞いて「あのばあさん、ボケたか?」と思うほどの信じられない、プロジェクトX級の仕事です。というのも、後小松院は貞成親王を仙洞御所に入れてはいけない、と遺言を残していたからです。仙洞御所に貞成親王が入ってくる、ということは、当今である後花園天皇の先祖が崇光院であることを明示し、後光厳皇統そのものの存立を揺るがすことを後小松院は危惧していた訳です。

 

後小松院の遺言を真っ向から踏みにじるのは問題あるが、後光厳皇統をつぶしてしまいたい義教は、隠微にことを運びます。

 

まず仙洞御所を解体し、それを内裏の近くに移築し、その後仙洞御所の跡地を伏見宮家に献上する。それによって仙洞御所に貞成親王を入れてはいけない、という後小松院の遺言は守った上で、事実上伏見宮家に引き渡す。これによって当今は後光厳皇統ではなく崇光皇統であることの既成事実を一つずつ積み重ねていく。これが義教が、おそらくは東御方と描いた図でしょう。

 

東御方は晩年の栄仁親王に連れ添っただけに、後小松院によって領地のほとんどを奪われ、困窮し、さらに取り潰しをちらつかされて泣く泣く代々伝わる宝物の笛を差し出すという屈辱を味わわされた栄仁親王の無念を受け継いでいたのでしょう。

 

光厳皇統と崇光皇統はお互いに多くの家臣を抱えており、それぞれの反目がかなり大きなものになっていきました。我々は南北朝の対立や大覚寺統持明院統の争いに目を奪われがちですが、本当に深刻な対立は後光厳皇統と崇光皇統にこそあったはずです。

 

伏見宮家移転という一大プロジェクトを成し遂げた東御方の人生の絶頂は永享7年のこのころでしょう。

 

彼女の運命は一年半後の永享9年2月、暗転します。

 

2月9日、三条実雅邸に行った義教のお供をして彼女も実雅邸に赴きます。そこで見た中国渡来の絵をみた義教は見事さに感心し、感想を東御方に求めます。そこで東御方はその絵をけなしました。

 

逆上した義教は腰刀を抜いて「金打(きんちょう)」に及び、「二度と姿を見せるな」と怒鳴りつけた、と言います。すっかり不機嫌になった義教は猿楽見学も取りやめ、三条実雅邸から帰還します。ただ義教もやりすぎたと思ったか「東御方については今後も今まで通り伏見宮家に奉仕するように」と使者を通じて伝達します。幸子もなんとか尹子に口利きをしてもらえるように動いているようですが、まあ生活の糧を奪われないだけましだと言えます。

 

ところで「腹を立てて腰刀を抜き金打なさった」と『看聞日記』永享9年2月10日条にはありますが、一体何をしたのでしょう。

 

「金打」とは、武士が誓約の印に刀と刀を打ち鳴らす行為をさします。横井清氏は「この場合は峰打ちであったと思える」(『看聞御記』1979年、303ページ)としていらっしゃいますが、私は違うと思っています。

 

 

室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)

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峰打ちは危険な行為です。後円融上皇後宮の三条厳子に峰打ちをした時には、出血が止まらず大騒ぎになりました。まして老齢の東御方に峰打ちをしたら大怪我で済まず、死んでいたかもしれません。

 

実際には翌々日の11日には東御方は貞成親王のもとに顔を見せています。ただ貞成親王は小心なところがあって、義教からは「伏見宮家にこれまで通り御仕えさせる」ということを伝えられていたのですが、一応尹子に確認しています。尹子からは「今まで通り伏見宮家に御仕えすることでいいんじゃないですか」という返事をもらい、結局今まで通り伏見宮家の女房に復帰しています。

 

とすると、「金打」はそんな暴力的なことではないのではないでしょうか。

 

そこで思い出すことがあります。志村けんさんのバカ殿様のネタで由紀さおりさんに刀を抜くシーンがあります。

www.youtube.com

この志村けんさんを足利義教に、由紀さおりさんを東御方に見立てれば、義教が東御方にやったという「金打」のシーンが想像できます。

義教「この絵についてどう思う?」

東御方「だっさい絵ですよね、ほほほほほほ」

(シャーン)←尺八の音色

義教、刀を少し抜きながら

「俺の目は節穴じゃねえぞ」

東御方「申し訳ございません」

ここでいかりや長介さん演じる家老のような人がいなかったのが東御方にとっても義教にとっても悲劇でした。畠山満家満済が入れば、「まあまあ殿、そこまでお怒りにならなくても」となだめ「それはそうじゃな」と義教も我慢できたのでしょうが。

 

東御方は永享13年正月には伏見宮家の正月の儀式に序列二位で出席しています。その年の5月27日には息を引き取ります。そして東御方の逝去から一ヶ月も立たない6月24日、義教は赤松氏によって殺害されます。