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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー後小松院

後小松天皇、第百代天皇南北朝合体の時の天皇一休宗純の父と言われる、足利義満の傀儡、足利義満による王権簒奪の対象。

 

彼を表す言葉は、当たっているものから、現在は否定されているものまで多くあります。

 

ただ彼を一言で表すと残念ながら「暗愚」の一言につきます。

 

彼の問題行動は数多く知られています。

 

権大納言中院通守の運命は過酷です。中院家に限ったことではありませんが、当時の貴族は経済的に困窮することが多くありました。家領からの収入が途絶えがちになっているのです。伏見宮家でも膝下の伏見荘ですらままならないことがあります。

 

そんな中、後小松院は通守に春日祭の上卿を命じます。しかし上卿を務めるには費用が必要です。中院家はその費用を捻出できそうもないので、通守は辞退しようとしますが、後小松院はそれを許しません。結局通守は自死に追い込まれました。

 

後小松院は後先考えずにその場限りの強硬姿勢で自らの権威を確かめようとするところがあったようです。院宣の乱発に足利義持が苦言を呈したこともありました。仙洞御所を新しく造営してくれないから、と醍醐寺を仮の仙洞御所にしようとごねたこともありました。

 

この後小松院の姿勢は後光厳皇統に共通の姿勢でした。春日大社の神木に対し、藤原家の都合を無視して強行突破を図った後光厳院をはじめ、目先の行動に振り回されて権威を高めようとして逆に失墜させる、ということの繰り返しです。

 

光厳皇統が幕府の、幕府による、幕府のための皇統であることを、彼ら自身がよく知っており、それだけに権威を上げることに必死になることはわからないでもありません。しかし彼らの行動は目先のことに終始し、先を見通すことができなかったのです。

 

幕府にとってあからさまに「幕府の、幕府による、幕府のための皇統」が表に出るのは望ましくありません。幕府は後光厳皇統の権威を向上させるために、朝廷の統制を強めていきます。そしてそれに図に乗ってやりたい放題をしていたのが後小松院であると言えましょう。

 

そのような後小松院でしたが、意外なことに後花園天皇との関係は良好だったようです。後小松院が崩御した直後の後花園天皇宸翰女房奉書では後小松院崩御のショックを察してほしい、と貞成親王に書き送っています。貞成親王の書状を見ても、後花園天皇が後小松院のことを慕っていることが苦々しく書かれています。

 

これは想像ですが、急遽天皇になることになって、京都に連れてこられた十歳(満年齢では九歳)の後花園天皇を、後小松院は優しく出迎え、実の子以上に可愛がったのではないでしょうか。

 

実際後小松院は実子を可愛がりませんでした。長男の称光天皇は病気がちで、後小松院とはしばしば対立に及び、次男の小川宮(こかわのみや)は、奇行が多く、後小松院もはっきり言って持て余していました。実子との関係をうまく構築できなかった後小松院は、それを埋め合わせるように、後花園天皇を可愛がったと思われます。践祚後は両者は対面しなくなりますが、践祚までの十日間、そしてその後も折に触れて書面や近臣を通じて、何くれとなく後花園天皇をサポートしたのでしょう。

 

後花園天皇が殊の外後光厳皇統であることを意識したのは、後小松院の存在が大きいのではないでしょうか。

 

惜しむらくは、その優しさを、僧侶からいきなり将軍にすえられて、あたふたしていた足利義教に向けることがありませんでした。あれほどお世話になった足利義持の葬礼に参加した公家に蟄居を命じ、幕府の人事権に口出しをし、いたずらに混乱を持ち込んで、義教の劣等感を刺戟し、義教を敵に回してしまったことは、後光厳皇統の未来のためになりませんでした。執念深い上に頭が異常に切れる義教が、後小松院の死後、後小松院が一番いやがること、つまり後光厳皇統の抹殺に動き出すことは、後小松院以外の人間には容易に想像できることです。残念ながら、後小松院は目先のことにとらわれてしまうタイプだったので、とりあえず義教をいびることに夢中で、それがどのような結末をもたらすかの想像ができなかったのでしょう。

 

光範門院は義教に所領を没収され、面目をつぶされます。後小松院の側近はかなり義教の時代に追放されます。そして義教と後花園天皇を逆恨みした日野有光によって後花園天皇暗殺未遂という事件まで引き起こすことになります。

 

その「暗愚」ぶりが引き立つ後小松院ですが、「英邁」な後花園天皇を育て上げることに成功したのは、後小松院の人生における大きな成果であったと思います。