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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー後土御門天皇2

末柄豊氏に「天皇と室町殿の微妙な関係」という文章があります。『新発見!週刊日本の歴史』室町時代3に入っています。

 

週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

 

 

後土御門天皇あての一条兼良の手紙と、日野富子あての後土御門天皇の手紙を分析し、天皇と室町殿の関係を、天皇が室町殿から庇護される存在である、としています。

 

この結論には何の異論もありません。ここで異論が出せたら面白いのですが、現時点ではこの結論は動かないと思います。

 

後土御門天皇を取り上げる際に、もう少し詳しくこの書状の裏を見ていきたいと思います。

 

一条兼良消息」(一条兼良から後土御門天皇への手紙)は、天皇が自らの判断で大名に位階を追贈することの可否、と末柄氏はいいます。大内政弘が亡父教弘に対して従三位贈位を望んで兼良に仲介を求めます。ところが兼良が仲介したところ、後土御門天皇は幕府の意向を憚って拒否し、それに対し翻意を求めたもの、ということです。

 

武家官位天皇にあっても不可侵の領域として存在していた、と末柄氏はいうのですが、末柄氏の見方は一条兼良および大内政弘サイドから見たら全くその通りなんですが、後土御門天皇サイドから見ればそれほど単純なものではありません。

 

一条兼良は「贈位にすぎないのに武家からの咎めを理由に認めないのはいかがなものでしょうか」と言っています。後土御門天皇の立場に立てば、ものすごく乱暴なものいいです。

 

兼良「今回、大内政弘から亡父の教弘への贈位の要請がありました。なにとぞ贈位してやってくださいませ」

後土御門天皇「え〜!?そんなん幕府を通せや。幕府を通さんかったら幕府がどう思うか、考えたことあるか?」

兼良「いえ、今回は現任ではなくあくまでも故人への追贈です。幕府から咎めがあるかもしれないから認めないのはいかがなものでしょう」

 

私はそもそも政弘と兼良の言い分がむちゃくちゃだと思います。武家のことなんですから幕府を通せばいい話です。「武家咎めがあるかもしれない、とか弱腰になってんじゃねぇよ」という前に、幕府にお願いすれば、そもそも「武家咎め」云々と言わなくて済むわけです。

 

ということは、この贈位は幕府がそもそもいい顔をしていないことを示しています。もう一つ、兼良がここまで必死なのは、政弘から多額の献金を受け取って動いているから、以外にはあり得ません。この話は幕府云々ではなく、そもそも後土御門天皇にとっては迷惑この上ない話であったはずです。

 

将軍家御台所、というよりも後土御門天皇にとっては友達以上、不倫相手未満、というか夫公認の準恋人関係だった日野富子に宛てた後土御門天皇の手紙は何を書いていたか、というと、末柄氏の記述によれば、以下の通りです。

 

禁裏御料であった山国荘の代官である烏丸資任(からすまる・すけとう)は禁裏の修造を怠り、後土御門天皇はその解任を望んでいました。その意向と資任の抗弁の内容を教えて欲しいと、富子に書き送り、富子は資任の言い分を伝えましたが、それが不当だと言った手紙が現在残っているようです。

 

資任の主張は、山国荘の代官は足利義教から拝領したものであって、天皇による解任要求は不当だとしたものです。それに対して後土御門天皇は自分の意向を覆すのは遺憾である、と述べて改めて解任するように要求しました。末柄氏は「禁裏の修造に必要な所領の支配についてさえ、室町殿に懇願する以外の方法がなかった」としています。

 

それはその通りで、全く異存はないんですが、後土御門天皇側から見ると、日野富子にわざわざ頼み込んでいるのが目につきます。

 

十年にわたって同居していた誼を頼ったのでしょうが、だからこそ不満をぶちまけられる関係にあったと言えるでしょう。義政と後土御門天皇の間を富子が取り持っているのはなかなか興味深い現象ですが、それは十年に渡る二人の親密な関係が築き上げたものと言えるでしょう。

 

末柄氏は「天皇自身、幕府の庇護なしに朝廷の存立が不可能であることを熟知し、室町殿の判断を尊重することを当然視していた」としています。全く異論はありません。

 

ただ、それ以上に後土御門天皇の代に、十年に渡る同居で室町殿と天皇の間の緊張関係は失われ、なあなあになっていたことは見逃せないだろうと思います。

 

後土御門天皇と富子の仲良しコンビは、明応の政変では別々の道を歩むかに見えます。細川政元による足利義稙廃立を支援する富子と、それにブチ切れて退位を表明しようとする後土御門天皇は対立をするかのようですが、最終的に後土御門天皇足利義澄征夷大将軍と認定することで、富子との関係が破綻することはなくなりました。

 

後土御門天皇が結局明応の政変を追認したのは、退位するにも費用がかかるからです。その費用を出すのは細川政元日野富子なので、富子をディスっておいて富子に費用を出してもらう、というのは後土御門天皇がいかに富子とずぶずぶの関係であったとしても、気まずかったでしょう。

 

案外富子は費用をポンと出してくれたかもしれませんが。ただ政元が、意外と小さい男だったかもしれません。