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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇と空虚な中心としての天皇制

東島誠氏は下記著作で「天皇制とは中世後期の所産であるーこの結論は決して意外ではない」といいます。

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

 

 唐突に言われても何のことか、分からない方も多いかと思います。氏は注に下記著作をあげています、

Ⅳ章の「隔壁の誕生」について氏は「本章は、〈天皇制〉を古代から〈実在した〉ものと見る旧い常識と、近代知によって〈構成された〉ものと見る新しい常識の、いずれの常識からも訣別する道を択ぶものとなった」と述べます。「天皇制は中世の所産である」というのは、天皇制が古代の天皇制そのまま残っているわけではないが、さりとて近代に全て作り上げられ、前近代とは完全に断絶しているわけでもない、ということである、と私は理解しています。

氏は天皇制について「形骸化しつつも惰性的に想起されるシステムとしての天皇」と定義します。

 

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

公共圏の歴史的創造―江湖の思想へ

 

 

もう少し詳しく氏は『自由にしてケシカラン人々の世紀』で述べています。応仁の乱の直前の寛正年間の糺河原の勧進猿楽の座と、その百年前の四条河原の勧進猿楽を比べると、寛正年間には足利義政日野富子夫妻を頂点とした序列が出来上がっているのですが、富子と義政の間に「神之座敷」が設えられているわけです。そして「神之座敷」の正面にあたる末席には勧進猿楽師が座っています。「神之座敷」という「空虚な中心点」が据えられているこの構造こそが天皇制である、と東島氏は言うわけです。

 

百年前の南北朝時代の猿楽を風刺した狂歌には「王ばかりこそのぼらざりけれ」と天皇の不在がすでに指摘されています。そしてその天皇の不在が、天皇の座となるべき「空虚な中心点」を設えさせることとなえい、そこに天皇が座るとなると、天皇から始まる身分秩序が再確認されることとなる、これが天皇制であり、中世後期にこの形がはじまった、というわけです。

 

後花園天皇にこだわって見ていきますと、この話はかなり腑に落ちるわけです。この東島氏の著作が出た時には何を言っているのか、実は皆目わかりませんでした。今はなるほど、と少しわかる気がします。

 

今考えているのは、中世後期といっても、具体的にいつ、どのような経緯で「空虚な中心」である「天皇制」が出現してきたのか、ということですが、これは我田引水に なりますが、後花園天皇の時代に他ならない。

 

例えば想像してください。称光天皇後小松天皇後円融天皇後光厳天皇で「空虚な中心」になれるか、と。今日に伝わる彼らのエピソードに碌なものがありません。称光天皇後円融天皇はDVエピソード、後小松天皇パワハラで自殺者まで出している。後光厳天皇三種の神器がないまま即位し、退位し(これは後円融も同じ)、興福寺の強訴に対して空気を読まずに強気に出て詰んでしまった間の悪さ。

 

ここで誤解してはいけないのは、室町幕府は精一杯天皇の権威を守ろうとしているのであって、王権を簒奪しようとか、天皇権威を弱小化して自分に都合のいいようにしている、とか考えてはいないことです。もちろん強大であっても困るのでしょうが、当時の天皇の権威は極限まで減少していました。それを如何に幕府にとって都合のいいように回復させるか、という課題があったのですが、後光厳天皇から称光天皇までの天皇は「オレが、オレが」と前に出たがり、結果として天皇の権威を傷つけてしまうことが多く、幕府にとっては頭が痛いことであったはずです。

 

彼らと比べると、我らが後花園天皇はやはり傑出していたと言わざるを得ません。自己顕示欲や衒いが強いのは事実ですが、それがうまく作用しています。

 

後花園天皇にとって大きな転機はやはり治罰綸旨の発給だったと思います。田村航氏が「揺れる後花園天皇」(『日本歴史』818号、2016年7月号)で明らかにされたことですが、治罰綸旨を奏請した足利義教は、幕府権威の低下を補うためではなく、皇統の定まらない中で、権威が揺らいでいる後花園天皇の権威を向上させるために綸旨を奏請した、とされています。実は戦争行為に天皇が加担するのは危険な行為であるわけです。戦争責任が不可避に問われます。室町幕府が長く天皇を戦争に加担させなかったのは、戦争に加担することで天皇の戦争責任が問われ、天皇権威が低下してしまうことを恐れたからだ、とも考えられます。いわば一種の賭けだったわけです。

 

後花園天皇はこの賭けに勝ちます。もし一回でも室町幕府の戦争がうまくいかないことがあれば、天皇は責任を真正面からかぶることになります。後花園天皇が綸旨を出した戦争に後花園天皇は勝ち続け、後花園天皇の権威は安定するわけです。

 

『長禄寛正記』における義政の奢侈とそれを漢詩で諌める後花園天皇のエピソードも取り扱いに少し注意が必要だと思います。

 

足利義政が飢饉も顧みず、奢侈にふけり、御所の造営を行なっていた時に、後花園天皇漢詩でもって民の苦しみを顧みるように諭し、株をあげた、という例の話ですが、これは愚かな義政と英邁な後花園天皇を対置する物語ではありません。物語の作りとしては、英邁な天皇とその意を汲んで奢侈をやめる立派な将軍という話になっています。

 

現実の寛正の飢饉があまりにも残酷な現実であるため、そのリアリティの方に目がいくわけですが、作者の意図は違うところにあるのです。『長禄寛正記』の失敗は、あまりにもベースとした現実が酷たらしいために、英邁な天皇の意を体現する有能な将軍というストーリーが現実離れしてしまい、どう読んでも英邁な天皇(もしくは嫌味な天皇)に叱りつけられる愚かな将軍というストーリにしかならなくなってしまったところでしょう。

 

と、細かく見るとボロが出ているのですが、寛正の飢饉の終わりを告げるイベントとしての糺河原の勧進猿楽の場に「神之座敷」という「空虚な中心」に座す存在として、後花園天皇以上の存在を知りません。

 

東島氏は『公共圏の歴史的創造』の中で、天皇制を神泉苑の隔壁になぞらえています。こちらの方がより後花園天皇の役割を明確に示しています。室町幕府神泉苑の東面にのみ隔壁を築きました。それは「無秩序のなかの秩序をかろうじて表象している。それは形骸化しつつも惰性的に想起されるシステムとしての天皇と、同じ役割を担うモニュメントであったに違いない。壁の向こう側は闇である。見えないことにしておかなければならなかったのである」(201ページ)というものでした。ポイントは幕府が壁と天皇制を築いた、ということです。そしてもう一つ、壁はやはり闇を隠さなければなりません。自身が闇であっては「見えないことにしておかなければならなかった」ということすらできません。

 

その意味で後花園天皇というのは格好の「隔壁」だったわけです。もっとも実際の隔壁の向こう側を「天皇のものだから」と側近に与えてしまい、東寺から訴えられて足利義政に綸旨を取り消され、不満タラタラ、という「隔壁」「空虚な中心」であったわけですが。

 

この辺、もう少し整理してみたいと思っています。