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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー足利義政3

足利義政後花園天皇の関係について、です。

 

義政が無能だったのはほぼ争うところがないのですが、廷臣としては有能だった、という意見もあります。実際、彼は後花園院政における院執権を務めていたのでその見解は正しいでしょう。

 

ただ、寛正の飢饉の時に後花園天皇が義政を漢詩で諫止したことを感謝し、崩御時も見守っている、というような話になりますと眉唾です。

 

というのは、義政は後花園天皇漢詩による諫止には、一旦は応じたものの、結局最終的には作っています。義政の気持ちを想像すると「反省してま〜す、ちっ、うっせーな」というところでしょう。

 

義政の無能ぶりを示すネタとして、寛正の飢饉の時の義政の対応が使われますが、これは冤罪ではないかと思っています。東島誠氏も義政が無策だったわけではなく、彼なりに機動的な財政出動などを行っていることを指摘しています。東島氏が指摘する義政の失敗は、飢饉が京都の住人ではなく、周辺地域の人々に被害を与えているので、洛内で炊き出しをすると「京都に行けば食える」という夢をいだいて京都を目指すが、京都に着くや、力尽きて命を落としていった、という「罪作りな善意」にある、ということです。

 

〈つながり〉の精神史 (講談社現代新書)

〈つながり〉の精神史 (講談社現代新書)

 

 

この点で義政を批判するのはある意味冤罪っぽい気もしないではありません。造営も人々に食と職を与えるための公共事業という藤木久志氏の説もあります。

 

飢餓と戦争の戦国を行く (読みなおす日本史)
 

 

義政の真意はわかりません。したがって後花園天皇がこれを批判したことの評価も差し控えます。

 

義政が後花園天皇の最期を看取り、戦争が続いて危険な中、その危険を顧みずに後花園天皇の葬礼に参加した、という話からは、義政が後花園天皇に寄せていた並々ならぬ敬愛の情を看取ることができます。

 

後花園天皇は父を早くに失い、予定されてもいなかった将軍職についてしまった義政にとっては父のようなものであった、と言ってよいでしょう。この時期の綸旨には幕府の追認をする形が多く、幕府からの要請で出されていることを明示したものばかりになっていく、という研究結果もあります。これは究極は天皇と幕府が一体化を強めていくことの現れであり、公武対立史観から離れてこれを見ると、天皇と幕府がウィンウィンの関係にあることを示しています。義教時代には義教が後花園天皇を立てていました。義政時代には後花園天皇が義政をサポートし、義政政権を強化していった、と言えるでしょう。後花園天皇の時代にまさに公武統一政権が完成した、とも考えられます。

 

しかし義政の無能失政で幕府の威信は急速に低下します。

 

 この本では義政の無能ぶりを見事に描いています。「前言を翻しすぎる」「常に強そうな方に付く」。まさに義政の生き方です。ただ「強そうな方に付」いた結果、室町幕府の、そして朝廷の基盤を崩壊させたわけですが。

 

後花園天皇には顔向けできなかったのではないか、と思います。もっとも義政の性格ならば、自分の失政の結果、こうなった、と認識していない可能性も高いですが。